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【歴史編】「立花宗茂」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「立花宗茂」編

立花宗茂は、幼名二つ、号一つを含めて、生涯13回も呼称を変えているが、本稿では分かりやすさを優先して、「立花宗茂」に統一する。

宗茂は、筑後(福岡県)・柳河(川)藩の初代藩主である。彼は父を二人持つ。実父は高橋紹運であり、義父が立花道雪(戸次鑑連)である。ともに、九州・豊後(大分県)の大友宗麟の重臣で、二人は互いを認め合った盟友であった。宗茂は高橋家の嫡男であったし、優秀な器量であったので、紹運は彼を大いに可愛がった。

一方、親友・道雪には男児がいなかった。だから道雪はことあるたびに紹運に懇望する。「貴殿の息子を、是非、我が家の養子に!」。はじめのうちは固辞していた紹運だったが、道雪の余りの熱心さに根負けして、ついに宗茂を道雪の養嗣子として立花家に預けることに同意するのだった。かくして「立花宗茂」が誕生する。この宗茂もまた、二人の父譲りの、剛毅な士であった。

ところで。義父・道雪には娘が一人いた。誾千代という。「誾」は白川静氏の「字通」によれば、「やわらぐ」「つつしむ」という意味、とあるが、当人は「やわらかい、慎に深い」女性というより、「剛毅な女性」だった。男児のいない道雪はこの男勝りの一人娘をこよなく愛した。

道雪は、この娘が7歳の時、自分は出兵などで居城を留守にしがちだからと、自分の城・「立花城」の全権を、彼女に委ねた。誾千代はそれによく応えて、その年齢で、城内をしっかり一つにまとめた、という。

この誾千代は、のちに、宗茂の妻になる女性であるが、彼女が「並の」女性ではなかった実例がある――秀吉は朝鮮半島で自分のために戦っている武将たちの妻を、「慰労」と称して自分の城に呼んだが、興に乗ると「一夜の伽」の相手をさせるなどという不埒なことに及ぶことがあった。

ある日、秀吉から誾千代にもお呼びがかかった。秀吉の「それ」を噂で知っていた誾千代は、秀吉がそんな仕儀に及んだ時には、秀吉の目の前で死んで見せると、侍女とともに懐剣を持ち、武装して「その席」に臨んだ。さしもの秀吉も、この時ばかりは手も足も出せなかったという話である。

夫も妻も剛毅だったこの夫婦は、それゆえに夫婦仲はあまりよくなかったという人もいるが、私は必ずしもそうは思わない。お互いが自分を主張して譲らず、喧嘩になったことはあったかもしれない。事実、彼らは後年、別居している。お互い、自分の挙措をはっきり主張し、いったん決めたら、その原則はいっかな変えない。「夫にひたすら従うのが妻の道」という当時の「夫婦像の常識」では説明しきれないこの夫婦は世間を驚かせただろうけれど、こういう「夫婦の形」があってもいい。

この、秀吉の「夜伽話」を命がけで拒否したことを誾千代は殊更、夫には言わなかった。周囲にはいろいろと噂する者もいたが、そんな中で「誾千代ならそうするだろう」と、誰よりも誾千代を信じていたのは宗茂だった。誾千代もまた、「夫なら私をわかってくれる」と思っていた。彼らは別居はしていたが離婚はしていない。誾千代の死が伝えられた時、宗茂は大勢の家臣たちの前で、号泣したという。いい夫婦ではないか。

「立花宗茂」元NHKアナウンサー 松平定知

立花宗茂という男は、「二人の父親」譲りの武勇で知られるが、その「志」も、また優れていた。生き方に、一本、筋がピンと通っていた。我が身を捨てて、窮地に追い込まれている友人を救ったことがある。加藤清正救出劇がそれだ。慶長の役の最終盤、清正が朝鮮半島の蔚山で敵に囲まれ絶体絶命のピンチの時、他の武将たちはそれぞれに帰国を急いで、自分のために行動していたが、この宗 茂軍だけが清正救出に向かったのだった。清正が感激したのは言うまでもない。後で少し触れるが、清正はこの時の恩義を忘れなかった。

宗茂の領国経営も、極めて優れていた。「自分がいまあるのも家臣のお陰、民のお陰」と、本当にそう思っていた。「筋の通った生き方」と、「家臣や民とは運命共同体」という思いが「宗茂自身」を作り出していった。のちの「関が原」では、宗茂は石田三成側についた。その、天下分け目の大いくさに敗れたのだから、宗茂は城も領国もすべて失った。にもかかわらず、清正を筆頭にした「友人たち」の尽力で、宗茂は敗軍の将ではただ一人、旧領・柳河藩の「完全回復」を果たすのである。「情けは人のためならず」の典型である。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。