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マラソンランナーに学ぶ

マラソンは人生の経験と
人間力が試される「大人の闘い」

マラソンランナー 千葉 真子

10000mで才能を開花させた千葉真子氏。マラソンへの転向にあたっては、光を見いだせない苦しい時期があった。その中で得たのは、「焦らずに待つこと」の大切さ。その極意は、日々の仕事や子育てにも活かせるものだという。

早朝の落ち葉掃きで徳を積む。若い時に我慢する訓練が大事

マラソンランナー 千葉 真子

中学時代はテニス部でしたが、3年生の冬に駅伝のメンバーが足りないと誘われ、駅伝の面白さを感じました。本格的に陸上競技を始めたのは立命館宇治高校に進学してからです。練習が厳しくて、最初の日の練習で全身が筋肉痛、足にマメがたくさんできました。これは、道を間違ったかなと思いましたね(笑)。

駅伝競技の選手を目指しましたが、1年時はレギュラーになれないばかりか、選手のサポート役の補欠にも入れず、大会の時は沿道で応援しただけ。私は体格も小さくケガも多く、高校時代は無名の存在でした。それでも厳しい練習に耐え、一つひとつ目標を乗り越えてきたことが、オリンピック、そして現在につながっていると思います。

高校卒業後に入った実業団・旭化成の練習メニューが自分にフィットしたということもあったんでしょうね。全速力で走る練習と、疲労を抜く(ゆっくり)ジョギングを日によって交互に行う。この繰り返しで、本来備わっていた陸上の才能が花開いたと思います。

実業団での目標は当初からフルマラソンと考えていました。しかし、どんな選手もいきなり42.195kmを走れるわけではないんです。時間をかけ、5km、10kmと徐々に距離を延ばしていくもの。その意味では10000mは、マラソンに向かう途中の段階でした。

この10000m走で記録が急に伸び、高校卒業後、わずか1年半でアトランタオリンピックの代表に選ばれることになりました。自分が参加する初めての大きな国際大会が、オリンピックだったというのは幸運というしかありません。しかも、5位入賞と想像もしない成績を収めることができました。

「オリンピックには魔物がすんでいる」とよく言われますが、私もレース直前は恐怖感でいっぱいでした。暇な時間があると悪い方、悪い方ばかりを考えてしまう。レースのことは忘れようと、選手村では部屋に閉じこもってゲームばかりしていました。

外国に行くのも初めて。松岡修造さんなど有名な選手とエレベーターですれ違ったりして、すっかり緊張していたんですね。

ただ、いざトラックに足を踏み入れると、不思議と恐怖は感じなかった。アトランタのスタジアムは観客席が大きいこともあって、400mトラックがとても小さく見えました。というか、トラック自体は普段自分が練習しているトラックと同じ大きさじゃないか。当たり前のことですけれどね(笑)。そう思うと、緊張と恐怖がすっと薄れ、気持ちは平常心に戻りました。

自分はあれだけ練習してきたんだ。それを繰り返せばいい。自分らしい走りをすればいい。そう考えて走った結果が5位入賞。初めての国際大会、初めてのオリンピックでこれだけの成績を残せたことで、ようやく自信がつきました。

長距離走は「苦・楽しい」。自分はそこで輝くことができる

マラソンランナー 千葉 真子

10000mもマラソンも、長距離走は何度走っても苦しいものです。途中で足を止めたいといつも思います。けれども同時に、苦しさがない楽しさは深みがない、とも思います。苦しさを経ているからこそ、ゴールした時の喜びは格別。その意味で長距離走というのは「苦・楽しい(くるたのしい)」スポーツだと思います。

10000mは400mトラックを25回も回る。よく「自分で何回回ったか数えているものなんですか」と聞かれるけれど、掲示板があるからそれは大丈夫なんです。でも私はできるだけそれを見ないようにしていました。あと、20回もあるのか、15回もあるのかと思うとつらくなるばかりですから。しばらく掲示板を見ないで走っているうちに、あと5回、あと3回と気づく。そこでもっと頑張ろうと思えるんですね。

たくさんの競技がある中で、走ることは自分に向いているとつくづく思います。もちろん他のスポーツだってよかったのかもしれないけれど、スピード・持久力、粘り強さが私の身上。自分が最大限輝くことができるスポーツが長距離走だったんですね。

選手と同じ目線で競技を考える──「小出マジック」の秘密

2001年から2005年にかけての小出義雄監督との出会いは、自分のマラソンに大きな影響を与えてくれました。小出監督の練習メニューは世界一厳しいと思います。1日に多い時は50km、60kmも走りますから。その一方で、「どうせ苦しいことをやるんだったら、明るく楽しくやろうじゃないか」とも言う人。テレビで皆さんが見るように、いつも笑顔でとても気さくな方ですよ。毎朝、選手の表情を見ては、「千葉ちゃん、顔色が悪いがどうした」などと声をかけてくれる。気遣いも超一流でしたね。

決して上から目線で選手を見る人ではありません。常に対等の目線。「一緒に頑張っていこう」という姿勢が監督にはありました。私自身、怒られたことは一度もありません。レースに負けても私を叱るのではなく、「ごめんよ、千葉ちゃん。俺が引っ張ってあげられなかった」などとおっしゃるんです。選手は実は怒られた方が楽なんですよね。小出監督のような対応をされると、かえってもっと頑張らないといけないなと思うようになる。

こうやって選手の底力を引き出すのがとてもうまい。まさにこうしたコミュニケーション能力にこそ、「小出マジック」があると思います。一般企業の上司の方も、こんなふうに部下としっかりコミュニケーションを取りながら、風通しの良い環境づくりができるとよいと思いますね。

マラソンへの転向で苦労。光を求め暗いトンネルをさまよった

マラソンランナー 千葉 真子

1996年のアトランタオリンピック入賞、1997年の世界陸上アテネ大会で銅メダルという、アスリートとして幸先の良いスタートを切ることができました。オリンピック・世界陸上で、日本女子代表がトラック種目でメダルを獲得したのは、1928年の人見絹枝選手以来の快挙。私は一躍注目されるようになりました。

高校時代は全く無名の選手だったので、まるで彗星のように現れた天才ランナーという人もいましたが、自分で天才だと思ったことは一度もありません。高校時代からの厳しい練習に耐えた努力、その下積みがあって、20歳前後からようやく、体の成長とともに才能が花開いたのだと思います。

最初は10000mを走っていましたが、本命はマラソンでした。世界陸上アテネ大会の後に、マラソンに転向するんですが、競技の転向というのはそう簡単なものじゃないんですね。10000mに比べてマラソンは格段に練習量が多く、そうなるとこれまでには経験したことのないような疲労も出てきます。この疲労が抜けないまま練習を重ねるとケガにつながる。といってケガを恐れて練習をおろそかにするわけにもいかない。そのジレンマに長い間、悩みました。

10000mでの栄光を忘れ、ゼロからのスタートのつもりで練習に取り組みました。失敗したら最後と腹をくくって臨んだ、2003年の大阪国際女子マラソンで2時間21分45秒の自己ベストを出し、同年の世界陸上パリ大会では銅メダルを獲得することができました。1997年から2003年までの6年間は、暗いトンネルの中で出口を求めてさまよい歩くようなつらい時期でした。でも、この時に途中でマラソンをやめていたら、今の自分はなかっただろうと思います。

私の引退レースは、2006年の北海道マラソンです。この大会では何度も優勝していて、とても相性のいいコースなんです。腕にマジックで「ありがとう」と書いてレースに臨みました。これまで支えてくれた関係者、応援してくれたファンのみなさんへの感謝の気持ちでした。あの時、沿道から沸き起こった拍手は、今でも忘れることができません。

マラソンは仕事にも、子育てにもよく似ている

マラソンランナー 千葉 真子

マラソンは自分を一回りも二回りも成長させてくれた競技です。私自身、10000m時代は、練習やレースの結果に一喜一憂したものですが、マラソンを始めてからは焦らず「待てる」ようになりました。それまでは、日々の練習が点と点でしかなかったものが、次第に、その点をつないで一つの線として描くことができるようになりました。先に目指すべき線が見えているから、短期ではなく、中長期的な目標を立て、そこに向かうこともできるようになりました。マラソンは、練習も大切ですが、それと同等に経験や人間力がモノをいうスポーツだと思います。その意味で「大人の競技」だと思うんです。

これって、ビジネスパーソンの仕事にも言えることなんじゃないかと思うのです。若い時は今日明日の結果が気になる。けれども、年齢と経験を重ねるうちに、定年までに何を成し遂げるか、というように、目標もより長く、大きなものに変わっていくと思うんです。

今私は2人の小さい子供の親ですが、その意味では子育てもマラソンによく似ていますね。子供が言うことを聞かず、イタズラをするたびにイライラしますよ。けれども、いちいち腹を立てていてはこちらが持ちません。子供が将来成長する姿を想像すれば、今ある問題なんて成長の一部。そう考えるようになれたら、子供の成長をじっと「待つ」ことができるんですね。

まずは最初の一歩から──マラソンを始める人たちへ

今、市民マラソンがブームです。毎週のようにどこかでレースがあり、私もゲストランナーとしてよく呼んでいただけるようになりました。昔はマラソンをする人の方が珍しかったですから、この盛況ぶりは隔世の感があります。

2007年に始まった東京マラソンの影響も大きいと思います。それが人々の健康・スポーツ志向に火をつけたんじゃないでしょうか。ランニングをすることで健康になり、ダイエットにもつながります。なにより走ることで、人は心も元気になる。友達もできるし、日々の生活に前向きになれる。「ランニングは人生をより良くしてくれるスポーツだ」とことあるごとに私はみなさんに話しています。

これからマラソンを始めようとする人へのアドバイスとしては、まずは最初の一歩。ゆっくりでも短くてもいいからまずは歩きだそう。そのうち早足になり、いつかは走ってみたくなるはず。距離を延ばしたり、タイムを競ったりするのは、その人次第。お洒落なウエアを着てみたい、走った後のビールが楽しみだ。何でもいいんです。どんな目的でもいいから、まずは最初の一歩を踏み出すことですね。もちろん無理は禁物。頑張りすぎると、ケガをしたり、筋肉痛になってしまったりして、結果的に三日坊主で終わってしまう。何事も八分目が肝心。難しく考えず、週に1、2回でもいいから始めてみてほしいですね。

自分一人では寂しいと思うなら、ランニングクラブなどへの入会をお勧めします。仲間ができることで、続けやすくなります。私も今「千葉真子BEST SMILEランニングクラブ」という自分のクラブを運営しています。毎月都内のいろいろなところで走っていますよ。

2020年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会ではぜひ聖火ランナーの一人に選ばれたいですね。1998年の長野オリンピックでは子供たちと一緒に聖火を持って走りましたから、あの感動をもう一度というわけです。そうやって、私はこれからもずっと走り続けていくんだと思います。(談)

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マラソンランナー 千葉 真子(ちば・まさこ)

1976年生まれ。1996年アトランタオリンピック10000mで5位入賞、1997年のアテネで行われた世界陸上競技選手権大会の10000mで、日本人女子トラック初となる銅メダル獲得。2003年パリでの世界陸上競技選手権大会のマラソンでは銅メダルに輝き、世界で初めてトラック、マラソン両方のメダルを手にした。現在はマラソン大会のゲストランナーや講演会、メディアなどで活躍し、「スポーツで世の中を元気にしたい」という目標に挑戦中。

千葉真子BEST SMILEランニングクラブ

(監修:日経BPコンサルティング)