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元サッカー日本代表に学ぶ

川口能活氏、サッカー人生を語る
~選手に自信を与え、共に闘える指導者を目指して~

元サッカー日本代表 川口能活

サッカーを始めたのは9歳のとき。清水商業高校卒業後、横浜マリノスに入り、プロ選手としての道を歩み出した川口能活氏。日本代表をはじめチームの鉄壁の守護神として活躍。プロのゴールキーパーとして初めて海外主要クラブに移籍した選手だった。ただ、そのサッカー人生は常に栄光に包まれていたわけではなく、度重なる怪我やJ2、J3クラブへの移籍などもあった。2018年に引退するまで、様々なチームでキャプテンを務めてきた川口氏に、モチベーション、リーダーシップ、若手選手の指導・育成のコツなどを伺った。

誰にも負けない経験の幅。それを活かして若手選手のモチベーションを引き出す

川口能活

2019年2月より、日本サッカー協会(JFA)所属ナショナルトレセンコーチ(ゴールキーパー担当)という立場になりました。現在は、JFAの教育機関であるJFAアカデミー福島が一時移転している御殿場高原時之栖(ときのすみか)に派遣され、中・高校年代のアカデミー生への指導・育成にあたっています。

アカデミー生はサッカーと学業の両立を目指しており、みな志はしっかりしています。何よりも真面目ですね。技術的に足りないところなどを把握した上で、強化したり、良さを引き出すのがコーチの仕事です。

日々の練習メニューを考え、個々の選手を指導し、練習後の振り返りやビデオの編集まで自分でやります。現役時代は練習が終わればゆっくり休めましたが、今はそうもいかない。エネルギーの使い方が違う。コーチ業というのはむしろ現役時代よりも忙しいかもしれないですね。

彼らが私に期待し、聞きたいと思っていることは、私が選手時代感じていたことや、やる気の出る練習、やりがいのあるトレーニング法だと思うんです。また、試合に対する向かい方、勝者のメンタリティなども学びたいんじゃないかと思います。

幸い私はU-23とフルの日本代表に選ばれ、アトランタオリンピック、フランス、日韓、ドイツ、南アフリカと4つのW杯を経験しています。所属クラブもJリーグの3つのカテゴリー、2つの海外クラブなど、サッカー選手としての経験だけは誰にも負けないぐらい幅広い。その経験を踏まえて、若い選手に伝えられることはけっして少なくありません。

試合のときにスタメンで出られる選手だけでなく、ベンチで控えに回る選手の気持ちも自分は理解できます。それぞれの立場を想像した上で声掛けをし、彼らのモチベーションを維持・向上するようにしています。

優れたキーパーの3つの条件

川口能活

キーパーはサッカーチームの要の一つですが、自分の後ろにはゴールポストしかない、孤独なポジションです。スーパーセーブをすれば褒められますが、一瞬のミスでチームに敗北をもたらすこともある。失点は戦術的・組織的な要因やディフェンダーのミスから生まれることもありますが、キーパーが抜かれるのは見た目にもわかりやすいので、キーパーが失点の責めを一身に負わなければならないこともあります。

それだけに、強いメンタリティが必要なんです。実際、キーパーには真面目で責任感の強い人が多い。「俺が一人でなんとかしてやる」というメンタリティ、一種の「エゴ」もときには必要になります。

と同時に、チーム全体のフォーメーションやゲームの流れを把握できるポジションでもあるので、それを活かしてフィールドプレーヤーに的確な指示、コーチングができなければならない。これが適切にできるようになるにはやはり経験が不可欠ですね。

優れたキーパーの条件は、理想を言えば、「戦えるフィジカル」「試合展開の予測力」「戦術の理解」という3つの要素をあわせもっていること。それと共に、精神的な余裕、落ち着き、味方の選手への包容力といったメンタルな要素も欠かせません。

キーパーは35歳を過ぎる頃から面白くなる

川口能活

「キーパーは35歳を過ぎる頃から面白くなる」とかつて言われたことがあります。自分の場合は、2006年のドイツW杯の直後、32歳の頃、身体の動きが以前に比べて「ズレている」という感覚を持つようになりました。ちょっとした瞬間に感じることなんですが、これまでと動きが違う。その原因がフィジカルなのかメンタルなのか、自分でもよくわからなかったんですが……。

ジュビロ磐田時代の34歳のときには右足の脛骨骨折という大きな怪我もしました。全治6カ月と診断され、秋以降の試合に出ることができませんでした。若いときからの疲労が知らず知らずのうちに蓄積されて、それが怪我につながったのかもしれない。あの頃は精神的にもぎりぎりの状態でしたね。

しかし、その壁を乗り越えた34~36歳の2年半はキャリアの中でも最もいい状態、自分でも「キャリアハイ」と思えるようなパフォーマンスを発揮することができました。

その頃感じていたのは、キーパーのポジションから見る「景色が違って見える」というものでした。若い頃は、やはりセービングの技術や身体能力を高めることで精一杯だったような気がします。ところが35歳前後には、一番後ろから全ての選手をコントロールして、試合を支配することができるようになった。目の前の景色ではなく、全体の景色が目に入ってくるようになったんです。これまでの経験で、ゲームのさまざまなシチュエーションが頭に入っていて、このときはどう対処すればいいか、次にはどういう状況が生まれるのかがある程度予測できるようになった、と言い替えることもできます。これまでの経験が、フィジカル面、メンタル面でのスキルアップとうまく合体し、自分に最高のパフォーマンスをもたらしたのだと思います。

自分でも自信をもって動けるようになったことで、プレーに精神的な余裕も生まれるようになりました。それがチーム全体に安心感をもたらすという相乗効果もありました。ただ、37歳でアキレス腱の切断があったりして、キャリアハイの状態は残念ながら長くは続かなかったんですけれど。

「このままで終わるものか」――その強い気持ちが現役を続けさせた

川口能活

2013年シーズンは、磐田でも徐々にスタメンから外れるようになりました。チームのJ2への降格が決定すると共に、契約期間満了の通知を受けました。それ以降は、カテゴリーをJ2、J3へと落としながら2つのクラブで現役選手を続けました。カテゴリーが落ちれば、選手への待遇も変わってくるのは当然です。これまでは新幹線や飛行機で移動していた遠征も、バスになる。練習や試合のピッチも、これまでは天然芝が当たり前だったのに、人工芝ということがよくありました。自分は若年世代のときから天然芝に馴れていたので、人工芝でプレーするとタイミングが摑めず最初は苦労しましたね。

移籍先では20歳も下の若い選手たちとポジションを争わなければならない。若いときに許されていたミスが許されないこともある。正直、辛かった。自分なりのプライドもありましたから。

それでもプロ選手を辞めなかったのは、常に「このままでは終わりたくない」という強い気持ちがあったからです。納得できないままでは、現役を引退できない。もちろんそれは自分のためでもあるが、これまで自分を支えてくれた家族、スタッフ、ファンのためにも中途半端では終わりたくない。40歳前後の同世代のサポーターの方には、私が現役で頑張っている姿に勇気づけられるという言葉もいただいていました。

最終的には相模原FCというチームで、ほぼ四半世紀におよぶプロサッカー選手としての人生を終えることになるんですが、一切、後悔はないです。常に全力で向き合ってきたから、胸を張って引退することができました。自分はけっして器用な人間ではない。だからこそ、100%以上努力してきた結果としての、幸せな現役人生だったと、今では思います。

優れたライバルがいたからこそ闘えた

川口能活

どんなスポーツでも、優れた選手にはそれに優るとも劣らない優れたライバルが必ず存在するものです。今改めて現役時代を振り返ったとき、私にとっての永遠のライバルと言えるのは何といっても楢崎正剛選手(1976年生まれ、元日本代表)でしょう。 代表チームでは常に2人でポジションを競い合いました。強力なライバルがいるので、一瞬の隙も見せられない。特にトルシエ監督のときは、すべてのポジションについて試合直前まで確定した選手というものがなく、全員で競争させましたから、1998年から2002日韓大会に至るまでの4年間は壮絶な闘いの日々でした。

でも、闘志を剥き出しにしてポジションを競い合うのはあくまでもベンチやピッチでのこと。練習が終われば、楢崎とは仲の良い友達で、細かいプレーの話はあまりしないけれど、プライベートの話はよくしていました。

キーパーというポジションは一人しかいないので、自分がスタメンを外れてベンチで控えているときは、正直なところ、スタメンキーパーのミスや怪我は、自分の出番につながるチャンスです。「そんなことはない。常にチームメイトのことを心配している」などというのはちょっと違うと思いますね。いつでも隙あらばポジションを奪ってやる、そのぐらいのガッツがないとプロはやっていけないんです。ただ、そのためには、監督に交代を告げられた瞬間に常にピッチに飛び出せるぐらいの準備を怠ることはできません。

厳しさの一方で、選手の特長を肯定し、褒めて育てることも大切

これまでさまざまな指導者と巡り合いました。日本代表の監督を挙げただけでも、加茂周監督、岡田武史監督、トルシエ監督、ジーコ監督、オシム監督といずれも素晴らしい人たちばかり。自分の選手としての、人間としての成長に欠かせない糧を与えてくれた人たちです。

現役を引退した今、改めて思い出すのは私の原点。小学校時代の指導者です。私は静岡県富士市の生まれで、小学3年生のとき、漫画「キャプテン翼」の影響と兄の勧めもあってサッカー少年団(現・鷹岡天間サッカースポーツ少年団)に入りました。キーパーになったのはそのときに指導してくれた先生の指示によるものですが、自分もこのポジションが向いていると思ったんですね。

ただ、私はちょっと人と違っていて、練習は大好きだったんですが、試合に出るのが嫌いで、何度も試合をサボったりしたんです。試合では練習と違って、1学年上の選手たちと一緒にプレーするので、それがやりづらかったのだと思います。

ところが、チームを指導する先生は妥協を許さない人。「試合をサボるようなやつは練習にも出さない」と厳しく諭されました。そのとき、子ども心にも、「手を抜くと、やりたいことができなくなる。好きなものは練習であれ、試合であれ、全力で取り組まないとダメ」ということを痛感したものです。

川口能活

それからは1回も練習を休んでいない。試合に選ばれたら、もちろん全力で取り組みました。小学校高学年になるとキャプテンに選ばれ、富士市の選抜チームでもキーパーを務めることができました。それが私の原点です。あのときの指導者の厳しい言葉がなかったら、自分は今ここにはいないとさえ思います。

プロになってからの印象的な指導者は横浜F・マリノス時代のオズワルド・アルディレス監督です。元アルゼンチン代表のミッドフィルダーで、イングランドのクラブの監督経験を経て、1996年清水エスパルスの監督として来日、2000年から横浜F・マリノスを率いていました。弁護士資格ももつ異色の監督です。

アルディレス監督にはサッカーの楽しさを改めて教えてもらいました。とにかく自分もサッカーを楽しもうという人で、練習もものすごく楽しい。キーパーの練習もキーパー専任コーチを置かず自ら見てくれました。

監督は私のことを「カワさん」と呼ぶんですが、就任後すぐに「ペナルティエリアはカワさんが制しなさい。ゴールマウスを守るだけじゃなくて、ペナルティエリア全域を守れるようにしなさい」と言われました。

守備範囲が広く、ときには前面に飛び出すという自分のプレースタイルを見ていて、私を信頼してくれたんですね。今では当たり前のことですが、当時はまだそういうスタイルのキーパーは少なかった。監督の言葉で自分のスタイルが間違っていないと確信しました。人間は褒められたほうがやはり伸びる。選手の性格やスタイルを見抜いた上でそれを肯定してくれるトップの言葉は、選手に自信を与えてくれるものです。

選手の成長の喜びを分かち合える指導者になりたい

今後は指導者としての道を歩むことになります。これまで自分が指導を受けてきた監督・コーチにはさまざまなタイプがいますが、自分は論理的に言葉で人に教えるというようなタイプではない。かといって、感情に訴えるというのもちょっと違うなと思います。

JFAアカデミーで接している若い選手に聞くと、自分にはどこか近寄りがたい雰囲気があるらしい(笑)。そう見られているのに、あえて選手との距離を置くようにしたら、ますます選手は近寄りがたいと思うでしょうね。だから、意識的に選手との間は距離を取らず、自分の方から積極的に声をかけるようにしています。

もし監督を目指すのなら、ジュビロ磐田の名波浩監督(清水商業の先輩)のように、選手の間に溶け込む兄貴分的な感じがいいなと思いますけれど、名波さんほどまではなくても、それに近い感じの指導者になりたいとは考えています。

もちろん、何事も過剰になってはいけない。歩み寄りすぎてはいけない。温情だけの指導ではよくない。監督はゲームの采配や選手選抜、選手交代のシーンでは、あえて非情にならなければならないときもありますから。

川口能活

このあたりのバランスは、これから徐々に身につけていきたいですね。川口能活なりの指導スタイルというものは、キーパーコーチとしての経験を重ねる中で、いずれ見えてくるのではないかと思います。現時点であえていえば、選手と一緒に闘えるコーチ、選手の成長を助けてあげられる指導者というのが目標です。

世界のサッカーのテクニックは日ごとに進歩しています。ゴールマウスの前でじっと待っているだけのキーパーはもうどんなチームにも存在しない。体を張って1対1を止められることはもちろんですが、カウンター攻撃の起点になり、ゲームの展開を見通せるキーパーが求められています。その意味では、ゲームの中でキーパーに求められる役割の大きさは20年前の比ではない。それらすべてを体現するキーパーが、日本代表を含むすべてのカテゴリーで求められています。

そうした、世界のどこに出しても恥ずかしくないようなゴールキーパーを育て上げるのが、これからの私の夢になりました。その実現のために、明日もトレーニング場のピッチで汗を流したい、頭を使いたい、そんなふうに思います。(談)

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川口能活

1975年静岡県富士市生まれ。サッカー選手。日本代表としてFIFAコンフェデレーションズカップ2001ベストイレブン、AFCアジアカップ2004ベストイレブンなどの受賞歴を持つ。国際Aマッチ出場数は日本代表歴代3位、同ゴールキーパー歴代1位の116試合を記録。4大会連続でFIFAワールドカップメンバーに選出。オシムジャパン、岡田ジャパンでは主将を務めた。2018年シーズン終了後に引退。現在は日本サッカー協会所属ナショナルトレセンコーチとして選手の指導・育成にあたる。