著名人から学ぶリーダーシップ著名人の実践経験から経営の栄養と刺激を補給

元女子バレーボール日本代表選手に学ぶ

臆病な選手でも、
高い志があれば頂点を目指せる
~練習は嘘をつかない、その精神をチームに伝えたかった~

元女子バレーボール日本代表選手 益子 直美

試合嫌いで、無類の練習好き。そんな益子氏の信条は「練習は決して裏切らない」。納得いくまで練習を重ねた先に、本番で発揮できるというのが、益子氏の考えだ。常に誠心誠意で目の前の目標に挑んできた益子氏にイトーヨーカドーのキャプテンとして苦労したことなどを伺った。

気弱な性格を克服できず、中学3年生でバレーボールを辞めることを決意

幼稚園の頃から周りの子供たちよりも頭一つ大きかった私に付けられたあだ名は、巨人やガリバー。背が高いのが嫌で欠点だと思い込んでしまった私は、小さく丸まって、なるべく目立たないようにしていました。

急速に世界が大きく広がったのは、アニメの『アタックNo.1』に憧れて、バレーボールを始めた中学生の時です。練習はきつかったけれど、自分で決めたことだから弱音をはけない。風邪をひいても熱を出しても、練習だけは熱心に通いました。

とはいえ、中学校のバレーボール部は、良い時でも東京都のベスト4止まり。決して強いとはいえなかった。そんな私が、なぜか中学3年生の時に東京都の選抜に選ばれ、次に関東の選抜、さらには全国の有力選手がひしめく強化合宿にも呼ばれて、日の丸を背負って海外遠征に行く立場になってしまった。周りはすごい選手ばかりでしたから、とても生き残っていけないと自分の中で壁をつくってしまったのです。それで、私には絶対に無理だと遠征を断り、バレーボールは中学限りできっぱりやめると決めました。

運命を180度変えた指導者の思い

元女子バレーボール日本代表選手 益子 直美

部活を引退後、受験勉強を始めていた時に、友人に誘われて見に行ったバレーボールのワールドカップの試合が、私の人生を決定づけました。

私たちは観客席の一番上の方で見ていたのですが、たまたま通りかかったバレーボール協会の関係者が、コート側の高価な席で見るよう言ってくれました。コートのすぐそばで観戦し、大ファンだった中国の選手との握手に感動して、バレーボールへの情熱を取り戻しました。

実は、受験勉強をしている最中、勉強のセンスよりも、バレーボールのセンスの方がまだあるかなと、気づき始めていたんです(笑)。この一件を機に、何があっても続けようと心に決め、バレーボールでご飯を食べるという将来の目標も定まりました。

現役引退後に知ったのですが、実は、当時の監督やコーチが「益子をワールドカップに誘え」と友人に声をかけてくれていたんです。コート側の席も協会関係者に用意するよう根回しもしてくれていました。監督は「益子は絶対に戻ってくると思っていた。ただ、天の邪鬼なところがあるから、やれとは言わなかったんだよ」と。見事に私の性格がばれていたのですね。中学・高校時代の指導者が私をよく理解し、導いてくれたから、バレーボールを続けられたし、今の私があるのだと、とても感謝しています。

実業団でキャプテン、そして現役引退後はアシスタントコーチを経験して思うのは、スポーツ選手の可能性を広げるのもつぶすのも、指導者次第だということです。スポーツ選手と一口にいっても、一人ひとり個性は全く違います。"我が我が"という選手もいれば、私のように闘争心がなく、臆病な選手もいる。個々の能力と性格、プレースタイルを把握した上で指導することは、スポーツはもちろん、ビジネスの場面においてもリーダーとしての重要な資質ではないかと思います。

バレーボールでご飯を食べる――固い決意で花形チームの誘いを封印

元女子バレーボール日本代表選手 益子 直美

高校3年生の時、当時全日本のチームに選ばれていた私は、常勝チームの日立製作所(以下、日立)から誘いを受けました。子供の頃からあのオレンジ色のユニホームに憧れていたのでうれしかったし、「日立に入れば、オリンピックに出られる」という甘い言葉にも心引かれました。

しかし、その誘いを断ったのは、できるだけ長くバレーボールでご飯を食べたいと思っていたからです。レギュラー争いが激しく、身長180cmくらいある選手でもレギュラーになれないチームで、170cmそこそこの私がレギュラーをつかめない可能性の方が高い。日立で活躍する自分の将来を描くことができなかったのです。

それに、自分のプレースタイルに合うチームで活躍したいという思いもありました。私はもともとスポーツ選手には珍しいぐらい、闘争心を持っていないタイプ。なぜバスケットボールではなく、バレーボールに引かれたかといえば、ネットで区切られた自分たちの陣地があって、常に仲間が周りにいてくれるから。人を蹴落としてまでレギュラーになりたい、と思う性格ではないというのは自分自身が一番よく知っていたのです。

それで、「入社したら、すぐにレギュラーになれる」と言ってくれたイトーヨーカドーで、1歩ずつ階段を上がり、仲間とともに日立を破って優勝する目標を掲げたのです。

格下のチームが常勝チームに肉薄できた理由

元女子バレーボール日本代表選手 益子 直美

日立とイトーヨーカドーでは何が違うのか。日立を倒すために仲間たちと考えたその答えは、個々の技術力の差です。当時の日立といえば、大林素子さんや中田久美さんといったスーパースターが活躍していましたが、私たちイトーヨーカドーの選手はほぼ全員が無名だった。個々の技術力だけを比べると到底かなう相手ではありませんが、私たちはそれをチーム力でカバーしようと考えました。

そこで私たちのチームが取り入れたのは、コートにいるレギュラー選手だけでなく、球拾いの選手にも、一人ひとりに役割を持たせることでした。例えば、私はサーブレシーブの責任者で、セッターはつなぎの部分の責任者、若手は声出しの責任者というように。

バレーボール選手はスパイクの調子が悪いと、その落胆が守備面にも影響してガタガタと崩れてしまうケースが多い。しかし、それぞれに役割を持たせると、たとえスパイクの調子が悪くても自分の役割を果たさなくてはいけませんから、落ち込んでいる暇がない。常に個々が役割に必死で、試合中にボーッと傍観者になる選手が一人もいませんでした。

そうして練習や試合に能動的に臨むという意識を一人ひとりが高められたからこそ、それまで日本リーグで万年4~5位のチームだったイトーヨーカドーが常勝チームの日立に太刀打ちできるほどに、結束力も固まっていったのだと思います。

試合よりもドキドキした戦術ミーティング

日立製作所(以下、日立)という圧倒的なチームに打ち勝とうとしていましたから、トレーニングは厳しいものでした。そんな中で常に心がけていたのは、漫然と練習に参加せずに、目標を設定することでした。例えば、この対戦相手なら最低でもこのぐらいのスパイク決定率が欲しいとか、フェイントを何本決めるというように、目標をしっかり決めて練習をすることで、試合に活きてくると思っていたからです。

ただ、練習以上に私が恐れていたのは、午前中いっぱいを使う長いミーティングでした。私はサーブレシーブの役割が与えられていましたから、相手チームの選手一人ひとりのサーブを全て研究し、それに適したポジショニングを考えて、チームの人たちの前で発表しなくてはいけない。勝つための戦術確認ですから、その都度、監督やコーチから鋭い指摘が飛ぶ。このミーティングが怖くて、怖くて……(笑)。苦手だった試合にもまして、ミーティングの方がドキドキしたほどでした。

ですが、こうしてチームの戦術とチーム力を着実に高めていったことで、1990年、私たちが目指す全員バレーで日立を破り、ついに念願だった優勝を果たすことができたのです。

"試合嫌いの練習好き"を見込まれてキャプテンに

元女子バレーボール日本代表選手 益子 直美

優勝後、思いがけない言葉を監督からかけられました。「チームを率いるキャプテンになれ」と命じられたのです。前任のキャプテンはガッツとパワーと声で、部員たちを引っ張るタイプ。私には、そんな存在感のあるキャプテンの後任は務まらないと、一度はお断りしました。

私はスパイクが決まってもガッツポーズもしなければ声も出さない、前任者とは正反対のタイプ。というのも、他の選手と比べて、私は体力のない選手だったので、声を出して体力を消耗するぐらいなら、スパイクを1本でも多く決めたいと思っていたのです。

しかし、固辞する私に監督がかけた言葉は「おまえに前任者のようなキャプテンを期待していない。キャプテンというものを意識しなくてもいい。それよりも、おまえの前向きな練習態度を見ていれば、チームメートはおのずとついてくるから大丈夫だ」というものでした。

試合は嫌いだったけれど、練習は誰よりも好きだったので、この言葉が心に響きました。スポーツ選手では珍しいと思うのですが、試合よりも練習の方が断然好き。"練習は決して裏切らない"というのが信条でもありました。

「練習でできないことは試合でもできない」、私はそう考えています。裏を返せば、徹底的に練習をすれば、本番でも必ずできると信じていたのです。練習ではできなかったけれど、たまたま試合ではできたというのは、ただのまぐれでしかない。試合に勝ったとしても、自分が今まで練習したことが出せなかったら意味がありませんから、自分が納得できるまでとことん突き詰めて練習していました。ですから、その姿勢や態度を見せることで、チームメートがついてきてくれるならと引き受けたのです。

キャプテンのプレッシャーを強い結束力で乗り越えた

元女子バレーボール日本代表選手 益子 直美

自分で納得してキャプテンを引き受けたものの、何度も重圧に押しつぶされそうになりました。特に、試合前にコートかサーブ権かを選ぶコイントスに挑むときがつらかった。

テレビの中継が入っていると、白球がライトで光ってセッターの目に入り、トスが上げにくいことがあります。しかし、セッターを優先すると、アタッカーがまぶしくなってしまう。同時にセッターとアタッカーの調子も考慮する必要がありました。どちら側のコートを選ぶかは、試合の勝敗にも関わりかねませんから、慎重に見極めなくてはいけません。それが、試合前のプレッシャーとなってのしかかったのです。

たまに、私がコートを選ぶのを苦手だと感じているのが相手チームのキャプテンに伝わってしまうことがありました。コイントスで勝ってサーブ権を取ることで、あえて私にコートを選ばせてくることもあったのです。すでに駆け引きが始まっているこのコイントスで、胃が痛くなるのですから、臆病者で、精神面がそれほど強くない私にとって、つくづくキャプテンを務める重圧は大きかったのだと思います。

それでも、なんとかキャプテンを務めることができたのは、仲間たちの存在があったから。レギュラー6人中、5人が同期というチームでしたから結束力が高く、そこに若手が入ってきてチーム全体にイキイキとした活気があった。そんな仲間に支えられながら、チームづくりができたことは幸運でした。

負け組の選手だからできる第2の人生の歩み方

元女子バレーボール日本代表選手 益子 直美

引退後、スポーツキャスターとして歩み始めたきっかけは、アシスタントコーチをしていた頃のことでした。ちょうどバルセロナオリンピックの前に、現地に旅立つ選手の事前インタビューをしてみないかと、テレビ局の方が声をかけてくれたのです。人前で話をするのが得意ではありませんでしたから、ここでも気弱な私は不安ばかりでした。

ですがこのとき、野球やバドミントン、柔道など、さまざまなスポーツの選手と触れ合う中で、バレーボールがいかに恵まれた環境で練習や試合ができているかを知りました。それとともに、オリンピックを見ていると、勝つ人はほんの一握りで、それ以外の多くの選手が負けて悔しい思いをしていることに気づかされました。

私のように、全日本に選ばれてもフル出場できたのは1度だけ、オリンピックに出場することもできなかった、いわば負け組の選手だからこそ、負けた選手の気持ちが分かり、伝えられることもあるのではないか。そんなふうに思うようになって、それまで一筋でやってきたバレーボールを活かした第2の人生の目標が見えてきました。

引退後、スポーツ全般には関わってきたものの、キャリアのない私が解説を務めることに疑問を感じて、これまではバレーボールと直接関わることは避けてきました。しかし、今年で引退から20年。ようやく、一線を引いてバレーボールを眺められるようになった今、ママさんバレーや子供たちのバレーなど、裾野を広げるための活動が何かできないかと、考え始めています。 (談)

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元女子バレーボール日本代表選手
益子 直美(ますこ・なおみ)

タレント、スポーツキャスター、元女子バレーボール日本代表選手
1966年生まれ。中学入学と同時にバレーボールを始め、中学・高校と全国区で活躍。"下町のマコちゃん"の愛称で、高校バレー界にブームを巻き起こした。高校3年生からは日本代表選手に選ばれ、世界選手権、ワールドカップなどに出場。高校卒業後、イトーヨーカ堂に入社し、実業団で活躍。1990年には、同社の日本リーグ初優勝にエースとして貢献。1991年に現役引退後は、イトーヨーカドーアシスタントコーチを1年間務めた後に退社。タレント、スポーツキャスターに転身。

(監修:日経BPコンサルティング)