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【歴史編】「片倉小十郎」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 政宗と生涯をともにした東北一の軍師・片倉小十郎

梵天丸(伊達政宗の幼名)は、その日も朝からため息ばかりついていた。さっきから家臣を従えて部屋の上座に座ってはいるのだが、口をついて出るのは、寒いの、腹が痛いの、鼻が詰まるの、といった愚痴ばかり。それを、飛び出し始めた右目を抑えながら、ボソッ、ボソッと言うものだから、この日も部屋の空気は陰鬱である。

梵天丸は5歳の時、天然痘(疱瘡)を発症し、右目が飛び出し、視力を失っていた。彼はのちに、「独眼竜」と呼ばれ、あわよくば天下を!というくらいの戦国を代表する隻眼の大将になるのだが、まだこの時は、その右目のことをひどく気に病む普通の少年だった。何か都合が悪いことが起こると、それを全部、目のせいにした。そんなことが続くある日のこと、度重なる恨み節に、傍にいた片倉小十郎が意を決してこう言った。「戦場で、敵に、その目を掴まれたら、殿はどうなさる?」自分がいま一番気にしている目のことをモロに指摘された梵天丸は怒りのあまり声も出ない。居並ぶ家臣たちは怖気づいて、全員、凍りついている。片倉小十郎は、梵天丸の答えのないのをみて、更に、こう続けた。「いっそ、いま、切ってしまいましょう」。

―――やや、あって、梵天丸は小十郎の目を睨みながら、黙って自分の小刀を小十郎に渡す。小十郎は進み出てその小刀を受け取るや、平然と、梵天丸の右目を抉った―――これは、私がNHK「その時歴史が動いた」を担当していた時、ゲスト出演の大学教授から酒席で伺った話である。術後の衛生環境はどうだったか、とか、止血はちゃんとしたのか、とかいろいろご感想はおありだろうが、申し訳ないがこの話のキモは、「そこ」ではない。そもそも、この話の真偽を云々することも、あまり意味のあることではない。私達がこの話から読み取るべきは、梵天丸と小十郎の間の、「愛情と信頼の深さ」である。

梵天丸に非凡の才を見抜いた小十郎は、時には優しい兄のように、時には厳しい父のように接した。刀や槍、馬といった「武芸一般」以外に、武将としての心構えといったものまで、教えこんだのである。梵天丸と小十郎は10歳違いの「主君と傅役(養育係)」であった。彼らは山形県米沢で出会った。

「片倉小十郎」元NHKアナウンサー 松平定知

片倉小十郎景綱

伊達政宗と言うと「仙台の人」と勝手に思いこんでいた私だったが、政宗の生誕の地は山形県の米沢城。尤も、最近では、米沢駅近くの上杉神社から3キロほど真西に行った舘山城ではなかったか、と言われているが、いずれにしても政宗は仙台生まれではない。その、上杉神社から、やはり3キロ、今度は北西の方向に行ったところに「成島八幡」という神社がある。この神社が片倉小十郎の生家である。

「舘山城と成島八幡」。何のことはない、二人は、お互いに知らずとも、もともと「ご近所同士」だったのだ。小十郎はこの神社の神職・片倉景重の次男として生まれたが、父母を幼い時に亡くす。長男が神職を継ぎ、小十郎は親戚に養子に出された。しかし、その家に実子が生まれるとその家を追い出され、そのあとは母の連れ子だった20歳近く年上の姉に養育される。寂しい幼年時代だった。ところが、この「喜多」という年の離れた姉が傑物で(彼女はのちに「梵天丸」の乳母になる)、彼女の働きかけもあって、小十郎は梵天丸の父・輝宗の小姓となり、これがきっかけで、梵天丸の傅役になるのである。梵天丸9歳、小十郎19歳。片倉小十郎は、武士とは全く関係のない、「神職の家」に生まれながら、政宗(梵天丸)の傅役として、軍師として、その生涯を通して政宗を支え続ける、唯一無二のかけがえのない側近になった。

片倉小十郎は武芸だけでなく、外交も情報収拾も情報操作も自在、戦略や調略もしたたか、と、東北の地で、その軍師としての存在は一際、光っていた。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。