著名人から学ぶリーダーシップ著名人の実践経験から経営の栄養と刺激を補給

【歴史編】「井伊直虎」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 女城主・井伊直虎

「井伊直虎」前編はこちらから

ところで、9歳で婚約?とお思いだろうが、当時の感覚で言えば、これは早熟ではない。この時代、女性の結婚適齢期は初潮を迎え子供ができる身体になった頃というのは珍しいことではなかった。従って男も低年齢化傾向。でも、9歳(満年齢では7、8歳)の直親が「婚約」の意味をどれほど理解していたかはわからない。直親も周囲も、それが直親の安全のため、井伊家のため、とは言いながら、亡命生活の10年もの間、よく、だんまりを続けたものだ、と思う。

直虎にしてみれば、何の連絡もない以上、相手は婚約者なのだから、その無事の帰郷をひたすら、待つしかない。直親の二歳年上、と仮定して、待っている間に、当時の女性の「適齢期」はどんどん過ぎていく。けれども、待たねばならない。

結局、彼女は婚約者に操を立て、彼の身の安全を祈り、無事の帰郷を願って仏門に入る。一方、彼、直親は、亡命先の信州から、直虎の待つ井伊谷に戻ってきたあと、直虎とは別の、奥山親朝という人の娘と結婚して、男の子を設けた。その子が井伊直政(幼名虎松・万千代。のちの家康四天王の一人。彦根井伊家の藩祖)である。

ところで、仏門に入ることを決意した直虎は、はじめは尼僧になろうとした。自分は女性だから、という思いからだっただろう。しかし、ここで先述の南渓和尚から「待った」がかかる。

『尼僧はまずい。なぜなら、尼僧に一旦なったらもう元には戻れない、というのが一般的だから。その点、僧侶なら、「還俗」と言って娑婆に戻る道もある』。南渓和尚は、井伊家に男系が絶えた場合に直虎が家督を継ぐケースに備えて、直虎は、還俗がきく僧籍に入り、男名の次郎法師を名乗れと主張し、結局、直虎はその提案に従った。

この、直虎の仏門入り、という大きなサプライズはあったものの、この元婚約者カップルは、方や僧侶・次郎法師として、方や一児の父として、それなりの静かな生活が戻ってきた、と思われたころ、直親の前に、かつて、自分の父を自死に追い込んだグループのリーダーの息子があらわれた。

「井伊直虎」元NHKアナウンサー 松平定知

龍潭寺 本堂と枯山水庭園

この息子は、また、井伊宗家に敵対する側に回り、讒言をまき散らす。その弁明のために今川邸に行く途中、直親は彼らに襲撃され死亡してしまう。

直親28歳のときのことだった。その2年前には直虎の父・直盛が桶狭間で信長勢相手に戦死、また直虎の曾祖父の直平はその翌年に毒殺される(直虎の祖父・直宗は20年ちょっと前に、すで戦死している)。これで、遠州・井伊家の直系に、男は誰もいなくなった。直親が、許嫁の直虎、ではない別の女性に産ませた直政(幼名・虎松)を除いて。

ただ、このとき、この虎松を井伊家の後継にするには、彼は、年齢もさることながら、姓もまだ「井伊」ではなかったのである。それを井伊家に改姓させて、将来、井伊家の当主になる権利を確保したのは、前述の南渓和尚だった。そればかりではない。桶狭間の合戦以来、井伊家の主家筋だった今川家とだんだんに距離を置くようにしたのも、家康に接近したのも、虎松(直政)の養母に直虎を指名したのも、この井伊家断絶の危機に、かつて尼僧を断念させ、次郎法師と言う男名の僧侶になっていた直虎を井伊家の当主として井伊家の家督を相続させ、城主・地頭に就かせたのも、直政15歳の時に、家康の小姓として家康の身近に直政を置くお膳立てをし、のちの家康四天王につながる井伊家隆盛の道を切り拓いたのも、みんな、この南渓和尚の「計らい」だった。

「彼女」の城主の時代が3年ほど、と短期間であったことに加え、おそらく女性であるということもその理由の一つになっていたと思われるが、なぜか、龍潭寺にある井伊家の正式の系図に、彼女に「24代当主」の肩書はない。でも彼女は家督をきちんと相続した城主(地頭)なのだから、私は本稿では23代直親、24代直虎、25代直政と、あえて記す。

彼女は、女地頭、女城主として、男性しか使わない花押も使った。今川氏真が発効しようとした徳政令に関連して押したものがそれだが、それは太く、逞しくて、まるで男性が書いた様な筆圧である。背丈は6尺近くあったというから、胸にキリリと晒を巻いて乳房のふくらみを隠し、腰には大小を佩びて戦場を先頭切って指揮する、白鉢巻き姿の直虎は、さぞ、堂々と颯爽としていただろう。その城主としての活躍と、直政の養母としての優しい側面は、それぞれにドラマティックで魅力的だが、それは紙幅の都合で大河ドラマに任せ、本誌では最後に、彼らにまつわる「ちょっといい話」を一つだけ。

直政は、養母・直虎が死ぬまで、元服をしなかった。元服は、普通は15歳くらいでするのだが、初陣も済ませ、15歳を過ぎ、何度も戦場に立っているのに、彼は、22歳を過ぎるまで「万千代」の名前で通した。それは、養母・直虎に対する配慮からだった。

元服すれば、たった一人の井伊家の男性として家督を継ぐことは明らかである。自分が元服すれば、「当主」直虎は引退せざるを得ない。「ハイ。時期が来たので、交代しましょう、ご苦労様ァ」では、これまで井伊家の苦しい時に、女を捨ててまで城主・地頭として、家と土地を守ってくれた直虎に対して申し訳ないと万千代は思った。

彼が元服し、万千代から直政に名前を変えたのは、直虎の死から3か月後の天正10年(1582)11月のことであったという。

その他の【松平定知の歴史を知り経営を知る】を見る

歴史編 一覧へ

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。