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【歴史編】「上杉鷹山」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「上杉鷹山」編

1961年1月、第35代アメリカ合衆国大統領に就任したジョン・F・ケネディは各国の記者団相手の記者会見に臨んでいた。その席上で、日本人記者の手が挙がった。その記者が質問する。「日本人で最も尊敬する政治家は誰ですか?」その時、ケネディは、その記者の目をしっかりと見つめてこう言った。

「YOZAN UESUGI」その記者は耳を疑ったという。予想だにしなかった名前だったからである。記者の中には、この上杉鷹山を知らない人もいた。米沢藩主・上杉鷹山に対する当時の日本人の認識はこの程度だった。むしろケネディ大統領のおかげで、日本で上杉鷹山は蘇ったのである。

「上杉鷹山」元NHKアナウンサー 松平定知

上杉鷹山像

ケネディの就任演説には、「国家があなたに何をしてくれるか問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい」と語った有名な箇所があるが、この、国民と国家の関係について、上杉鷹山(治憲)は、後任の治広に次のような言葉を残している。

これは、いわゆる「伝国の辞」と言われるもので、JR米沢駅から少し歩いたところにある鷹山が祀られている松岬神社の境内に碑として残されている。文意は、国家(藩)は、先祖から子孫へと伝えられるものだから藩主の私物ではなく、人民は、その国家(藩)に属するものだから、これまた藩主が私有するものではない、そして藩主はその人民と藩のために存在するものであるから、ゆめゆめ、藩主のために国家(藩)や人民があるとは思うな、ということである。これは、まさに主権在民、民主主義の概念である。天明5年は西暦でいうと1785年。しかもこの時期は大飢饉の真っただ中にあった。こんな時期に、日本の、東北の、米沢の一藩主がこのような考え方を持ち、実践し、さらにそれを後世に伝えようとしていた―――これは我々日本民族の誇りであるが、しかし、ケネディのあの一言がなければ、その人物の存在を知らなかった日本人が大部分だったことも事実である。そのことを愧じると同時に「その情報」に、多くの日本人より、早く、しかも正確にキャッチしていて、それをケネディにインプットした、彼のブレーンの優秀さには舌を巻くほかはない。

第35代ケネディ大統領のあの記者会見からおよそ半世紀の後、彼の長女のキャロラインさんは、駐日アメリカ大使となっていた。彼女は2015年9月、夫とともに「YOZANUESUGI」の、山形県米沢市を訪れた。この時のキャロライン・ケネディ駐日アメリカ大使夫妻と第17代上杉家当主の写真は、今も、米沢城の二の丸跡に造られた博物館に掲示されている

上杉鷹山は、あの、上杉謙信の系統である。この上杉家は謙信を初代とする数え方と、謙信の時の越後から、会津・米沢に移封されたときの藩主の、養子・景勝(謙信の姉の仙桃院の息子、つまり謙信の甥)を初代とする数え方があるが、この際、鷹山の地元に敬意を表して景勝を初代としてカウントする。と、鷹山は第9代藩主ということになる。とはいっても、「直接の」血の繋がりはない。景勝同様、鷹山も「養子」である。実父は日向(宮崎県)高鍋藩の第6代藩主・秋月種実であり、彼はその二男であった。実母は筑前(福岡)秋月藩の第4代藩主の娘で、この母方の祖母が、第4代米沢藩主(綱憲)の娘であったことが縁で、鷹山は10歳の時(1760年)に、米沢・第8代藩主・重定の養子になった。蛇足を付け加えると、この米沢藩第4代藩主の綱憲の父は、かの、忠臣蔵の「吉良上野介」である。尤も、上野介の妻が米沢藩第3代藩主の綱勝の妹だったということで、上野介自身は上杉家とは直接の関係はない。しかし彼は、れっきとした上杉宗家の藩主の父、なのである。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。