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【歴史編】「千利休/後編」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「千利休/後編」編

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天正10年(1582)6月2日、本能寺で、信長は死ぬ。この時の秀吉の行動は神がかり的なスピードだった。秀吉の副官・黒田官兵衛の提言もあって、秀吉は大いに走った。「本能寺」の翌日3日に「変」を知った秀吉は、交戦中の毛利軍と直ちに休戦協定を結び、備中・高松の戦場を出て、姫路に引き返し、そこから、夜を日に次いで先行する光秀を追った。そして、13日には、大阪京都の府境の天王山の麓、山崎の地で光秀に追いつき、信長家臣の誰よりも早く、主君の仇を討った。「変」から僅か11日後のことだった。このことが、秀吉をして俄にポスト信長の最有力候補に踊り出させるのである。

この秀吉の「神がかり行進」は見ものだったが、この時の利休の行動もすばやかった。信長軍団の5人の師団長(柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、秀吉)のうちでは序列最下位の秀吉に、この時、利休はわざわざ会いに行ったのだ。秀吉が行動を起こした一週間後の10日に、尼崎で秀吉と会う。利休は秀吉に、そこで応分の挨拶をした。序列5番目の秀吉は、さぞ感激したことだろう。その年の秋10月に大徳寺で行われた信長の葬儀を秀吉が主宰して執行し、「ポスト信長」の動きは決定的なものになった。翌年、すぐ秀吉は利休を茶頭に指名した。利休も秀吉の大坂城築城に際しては、石を運ぶ船を大盤振る舞いした。秀吉も、信長同様、統治の手段として、茶の湯を政治的に利用した。その茶の湯の世界のトップが、利休。「二人のトップ」は、だから大蜜月関係にあった。秀吉の弟・秀長は、かつてこう言ったことがある。

―――「豊臣家の政治に関して、内内(うちうち)のことは利休が、公のことはこの秀長が承る」―――しかし、やがて、この盤石とも見えた秀吉・利休の間に微妙な風が吹き出す。きっかけは諸説あるが、私は二つ、挙げる。

一つは、「本能寺の変」直後、という「タイミング」であり、もう一つは、秀吉の芸術感覚の欠如、である。要するに、秀吉は信長ほどには茶の心や茶道具の価値を鑑定する能力に欠けていたのだ。しかし、秀吉は「大やる気」ではあった。翌年、大坂城で初茶会を開催、2年後には御所で天皇や公家を相手の茶会も開き、翌年にはその禁裏茶会に「黄金の茶室」を出現させた。ところが、である。茶道具の名品の数々は、先年の本能寺の変で灰燼に帰し、いかんせんその絶対量が足りないのである。この事態に、茶器の良し悪しを鑑定できる眼力が無い秀吉は、その調達を利休に「丸投げ」した。利休には、埋もれている名品を捜し出すこともできるし、何よりも、自分でその「名品」を産み出すこともできる。利休は当時、押しも押されもせぬ茶の湯の世界の第一人者だから「利休の手による器」は人々から絶大な信頼を得る。利休の名声は一気に高まった。

その風評に「ん?」と、秀吉が思ったのが最初ではなかったか。有名な「朝顔事件」がある。茶会当日、庭一杯に咲く秀吉自慢の朝顔は、利休によって全部摘み取られていた。失望した秀吉がそれでも気を取り直して茶席に入ると、床の間にたった一輪、その朝顔が活けてあったというあの話である。「豪華さ」の意味が、秀吉にはわからない。また、金ピカ趣味の秀吉の黄金茶室と対比される利休の「待庵」。土と木だけで作られた2畳だけの茶室である。その入口には、何ぴとと言えども身を屈めなければ通れない狭い「にじり口」がある。秀吉も頭を下げてやっと入る。と。茶室の奥の湯気の立つ釜の横には既に利休が端座していた。ここでまた「ん?」と、秀吉は思ったのだ。

双方の蟠りは続く。九州討伐から帰京した秀吉は、利休がプロデュースし、堺の商人がその実現に奔走した「北野大茶会」をドタキャン。利休はじめ堺衆の面目は丸つぶれになった。また、かつての堺の町の象徴だった周囲の濠の埋め立ても、秀吉は突如、命じるのである。利休も、何食わぬ顔で静かに「反撃」に出る。秀吉参加の茶会で、利休は秀吉が嫌いだと公言していた黒色の茶碗で茶を点てた。決定的だったのは利休が私費を投じて修築した京都・大徳寺、その山門の楼上に自分の木像を置いたのである。山門から寺に入る人は、みな、その足下を通らねばならぬ。「不敬」と断じられ、秀吉は「京を出て、堺で謹慎せよ」と下命。のちに、間に立った前田利家の使者が「秀吉さまは、自分の母か妻を通して詫びれば許す、と仰っている」と助言したが、利休は首肯しない。激怒した秀吉は、その木像を磔にし、翌日、利休を京に呼び戻し、2日後に「切腹」を命じた。その日、利休は茶を一服たて終わって腹を切った。享年70。経緯は述べたが、真相は、いまだ不明である。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。