著名人から学ぶリーダーシップ著名人の実践経験から経営の栄養と刺激を補給

【歴史編】「渋沢栄一/第1回」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「渋沢栄一/第1回」編

NHKの2021年の大河ドラマは渋沢栄一を主人公に『青天を衝け』というタイトルで2月14日から始まりました。渋沢栄一という人は500社以上の会社や団体の設立に関わり、日本の近代経済の礎を築いた人物ですが、もともとは、「反幕攘夷の人」でした。その栄一が、どういう経緯をたどって「そう」なったのか、今回から3回に亘って書いていきます。まずはその生い立ちから。

渋沢栄一は天保11年(1840)に生まれました。生誕地は武蔵国榛沢郡血洗島。今の埼玉県深谷市です。血洗島̶̶̶相当インパクトの強い地名ですが、今も、電信柱や信号機にその名は書かれてあります。つまり、現在も通用している地名です。命名の「いわれ」はいろいろありますが、深谷のすぐ北を流れる利根川の度重なる氾濫で、この辺の(土)地はしばしば、「(土)地が洗われた」から。つまり「地・洗い島」から来たのではないかというのが有力なのだそうです。

この、何度も「洗われた、荒れ地」のおかげで、深谷には良質の煉瓦土が出、かつてはここに、煉瓦製造施設がありました。趣のある深谷駅舎のはもちろんですが、JR東京駅舎の見事な煉瓦は、全部、この深谷産です。またこの土のお陰で、地中の白い部分の長くて甘い「深谷ねぎ」が育ちました。今や、下仁田、九条と並んで日本の葱ベスト3です。かつて、利根川は時として氾濫を引き起こしましたが、舟運の盛んな時代、物資の運搬の大動脈でした。また深谷市の南には陸路の大動脈・中仙道が通っています。つまり深谷は、ヒトやモノの中継地点として大いに栄えた場所。その深谷で、養蚕や藍玉で財を成したのが、栄一の父・市郎右衛門でした。

彼は当時、一族の中で最も栄えていた「東の家」の当主・宗助の2番目の弟で、男子の後継がいない「中の家」に婿入りした人です。この栄一の父・市郎右衛門は必死に働き、「中の家」の再興を果たしました。ですから栄一は豪農の息子です。「中の家」の門は薬医門のつくり、正面の扉は欅の一枚板。いまある主屋は明治28年に栄一の妹夫婦によって上棟されました。屋根には「煙出し」と呼ばれる天窓がある典型的な養蚕農家屋敷です。栄一は、この「中の家」で父の暮らしぶりを身近に見て育ちました。そのお陰で蚕や藍葉の良し悪しをきちんと鑑定できる眼が養われましたし、父の傍にいたから、商売の面白さにも目覚めます。

「渋沢栄一」元NHKアナウンサー 松平定知

渋沢栄一の生家

父は商売熱心でしたが、教育熱心でもありました。「上層農民」はそれなりの教養を身につけねば」と、栄一には幼いころから漢籍はじめ、いろいろな書物に触れさせました。おそらくこれは、栄一の10歳年上の、地元一の大インテリ、栄一が師と仰ぐ従兄の尾高惇忠の影響が大きかったと思います。「素読や、無理な音読は必要ない。なるべく多くの本に接することこそ大事」が惇忠の教育方針でしたから。

栄一が接した多くの本の中で、とりわけ「論語」は、彼の人生の規範になりました。母「ゑい」は家族や近所の人だけでなく、村中の人と良い関係を作っていた女性でした。例えばこんな話が伝わっています。生家の近くの神社(鹿島神社)の大欅の根元からは、その当時は滾々と水が湧いていたのだそうですが、それを温めて風呂を沸かし、それを近所の人に開放し、村人の背中を一人一人、優しく流したというのです。中には重い病の人もいましたけれど、彼女はその人の背中も分け隔てなく優しく流しました。

彼女の口癖は「みんながうれしいのが一番」、でした。父は商売熱心で教育熱心のまじめな人。その実直な生き方は、「実業家・栄一」の、母の慈しみ深い優しい生き方は、「慈善、教育事業家・栄一」の、素地を作ったように思います。

「渋沢栄一/第2回」はこちらから

その他の【松平定知の歴史を知り経営を知る】を見る

歴史編 一覧へ

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。