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【歴史編】「松平伊豆守信綱/前編」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 「松平伊豆守信綱/前編」編

この人がなぜ「知恵伊豆(智恵出づ)」と呼ばれたかについては、きっちりした資料を見たわけではありません。例えば、後年、明暦の大火で江戸城に火が回った時、彼が部屋の畳を急いで全部ひっくり返させてそれを出口までつなぎ、部屋の中でどっちに行ったらいいかわからず狂乱状態になっている奥女中たちに、「この畳を踏んでいきなされ」といって、彼女たちを無事出口まで移動させたということが書いてある少年向けの本を、その昔、息子に読み聞かせてやったことがあるくらいです。でも、この明暦の大火の話は1657年のこと。信綱にとっては、このあと触れようと思いますが、島原の乱(1637・38)や慶安の変(1651)の処理の後のことです。明暦の大火は第4代将軍家綱の叔父の保科正之(初代会津藩主)を中心に、将軍のバックアップ体制がしっかり機能している時期で、この時はもう、知恵伊豆は、前述2件の反幕運動を無事鎮圧させ、その事後処理も万端済ませたあとの、堂々たる重要幕閣の一人でした。歳も還暦前後ですから当時にしては年寄の範疇です。そんな老人が火事でもうもうと火煙が上がっている最中、その阿鼻叫喚の大混乱の現場にわざわざ出て行って、逃げ惑う奥女中たちに避難場所を直接指示する、というようなことを本当にしたかどうか、私としては「ン?」と思いますが、でもまあ彼は8歳の時に3代将軍・家光付小姓に抜擢されましたし、40代で幕府代表として天草に行き、そこでの争乱の収拾にあたったのは事実。また、若くして老中になり、特に失政もなく、老中職のまま病死していることからも、「周りから一目おかれる」存在、知恵者だったことは間違いないようです。

知恵伊豆・松平伊豆守信綱は徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国・忍に生まれます。尤もこの生誕地についても、父の久綱が伊奈忠次配下の代官でしたので、父の任地の武蔵国・伊奈生まれ説や、実家・大河内家歴代の地・遠江国徳利里生誕説もがあります。いま、仮に「忍説」をとるとして、この忍藩は家康がとても重要視していた藩でした。そこは、いまの埼玉県行田市付近。家康がここを重要視していた証拠に、家康は4男の忠吉を、この藩の主に据えているのです。「ン?でも、4男でしょ」とお思いかもしれません。実は徳川家にとってこの「4男」は「特別」でした。こういう事情があります。

まず、家康の長男・元康。彼は信長の娘と結婚します。しかし、この妻・徳姫の讒言で、舅・信長により自死させられます。2男の秀康は、子供がいなかった豊臣秀吉の許に、早くから養子として送り出されます。だから家康の後継は3男の秀忠、となったのですが、その次が4男忠吉、というわけです。「忍藩は特別」̶̶̶五街道整備と並ぶ家康畢生の大事業・利根川東遷事業は、まさにこの地から始まったことがその証です。それまで、江戸(東京)湾に流れ込み、河口流域をたびたび氾濫させ、農作物に甚大な被害を与えていた暴れ川・利根川の流路を、この忍の地から一気に東に変えて、銚子沖で太平洋に出るというコースを、まさに、人が自然に逆らって作り上げたのです。その結果、従来の江戸湾河口付近だけでなく、利根川の暴れ方に一喜一憂していた北関東一帯までが、一転して豊かな穀倉地帯に変わっていきました。

また「知恵伊豆生誕地は伊奈」説をとるならば、当時、伊奈忠次は関東代官頭を拝命していた大実力者でした。特にその土木技術における知識、能力は他を圧していました。彼は各地で、検地や新田開発、河川改修などに携わった土木工事のプロ。先述の家康の利根川東遷事業や、多摩川用水の掘削工事に大いに貢献した『名将』でした。後年、信綱が野火止用水などのインフラ工事に辣腕を振るったのは、その影響、なしとはしないと思います。

更にもう一つ、信綱生誕「遠江説」をとるならば、だから彼は「伊豆守」と呼ばれたのかな、ということで腑におちます。まあ、こうして信綱生誕地説はまちまちですが、その代わり、と言うかなんというか、誕生年ははっきりしています。それは慶長元年、1596年です。この年の翌年は秀吉の2度目の朝鮮侵攻・慶長の役のあった年、その翌年、秀吉は死に、家康が腰を上げ、2年後、関ヶ原の戦いで家康が天下を獲るといった時代状況でした。その、関ヶ原合戦の翌年、知恵伊豆は大河内家を離れ、叔父の松平正綱の養子になります。そこに至る経緯の詳細は不明です。ただ彼は後年、この養子先で、養父に、「この松平家では、代々、跡取りに『正』の字をつけることになっているようですから、私は正の字は用いません。実家は名前に綱の字が入っていますので、この際、「信綱」を名乗らせていただきます」と言ったとか。このやり取りが、信綱の何歳の時かははっきりしませんし、また、こんなやり取りが実際にあったのかどうかもはっきりしないのですが、でも、こんな「逸話」を聞くと、なるほど、彼は、周りの状況・空気を正当に理解し、そのことをきちんと相手に伝え、余計な波風が起るのを防ぐ気配りがある、頭の回転のいい人、という人物像が浮かびあがってきます。

「松平伊豆守信綱/後編」はこちらから

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。