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元プロ野球選手に学ぶ

プロ野球人生25年。自分を高め、組織を変えるために闘い続けた

元プロ野球選手 三浦 大輔

リーゼントの髪形がトレードマークのピッチャーといえば、「ハマの番長」こと、三浦大輔氏。横浜一筋に四半世紀にわたってマウンドを守ってきた。選手会長、投手兼コーチなども経験し、リーダーシップやコーチングについても一家言を持っている三浦氏。引退から1年、選手・コーチとしてのプロ野球人生、そしてこれからを語ってもらった。

なんとしてでも勝ちたい――“欲の塊”だった若い頃

三浦 大輔

引退して1年経ちますが、今振り返ればつくづく幸せな現役生活だったと思います。勝負の世界から解放されて、ちょっとほっとした気持ちにもなりました。トレーニングして身体を作らなくていいんだ、練習をしなくていいんだと。試合を見るにしても、現役時代よりずっと楽な気持ちで見られるようになりました。

現役の頃は、シーズン中はもちろんのこと、オフに入っても、例えば、テレビのバラエティ番組などに出演していても、勝負のことがいつも心の中のどこかにあって、オフでも気を使っていました。それほど、現役の頃は勝負にこだわり、どうしたら勝てるかを考えていました。

特に若いころは、自分で言うのもなんですが、“欲の塊”だったように思います。入団したからといって、シーズン早々からマウンドに立てるピッチャーはほとんどいません。91年入団で、初登板は翌シーズンの10月でした。ですから、プロ選手はまず一軍に早く上がりたい、次は試合に出たいと欲の塊になるのです。そもそもプロの練習は高校野球とは違いますから、最初の頃はそれに慣れるので精一杯でした。

もちろんマウンドに立てば、勝ちたい一心。さらに欲が出て、完投・完封したいとなっていきます。ともあれ、そのシーズンに何試合に出られるのか、何勝できるのか。一年一年が勝負なのです。今年それが達成できなかったら、翌年はどうするのか。一つひとつステージを積み上げるように考えていくのです。毎年、その年の一年を必死で駆け上がってきたので、振り返ってみると結果24年間という長い期間プロ野球選手として現役で頑張ってこられたのです。

若い頃は、基本的に自分のことしか考えていなかったように思います。良くも悪くも、自分のピッチングだけに集中していますから、他の投手との比較をする余裕もなく、周囲で起こることも、あまり気にならなかった。チームの雰囲気やチームワーク、リーダーシップなどについて真剣に考えるようになったのは、しばらく後になってからのことです。

チームワークで勝ちとった優勝。あの美酒をもう一度

三浦 大輔

チームワークの重要性をあらためて認識するようになったのは、1998年のことです。自分は以前から希望していた「18」という背番号を背負ってマウンドに立つようになりました。肝機能障害で1カ月離脱するというアクシデントはあったものの、自己最多となる12勝を挙げることができました。しかし、その個人成績以上に嬉しかったのは、チームがリーグ優勝を果たせたことです。2005年プロ14年目にして初のタイトル――最優秀防御率・最多奪三振を獲得するのですが、その時よりこの1998年の優勝の方が強く印象に残っています。

そもそも、プロ野球選手になったからには、ビールかけというのを一度はしてみたかったんです。実際それができた。みんなとビールかけをしているとき、辛かったキャンプでの練習、勝ちも負けもした試合の一コマ一コマ、選手を支えてくれた裏方さんの苦労など、さまざまなシーンが頭をよぎりました。

その頃はチームの選手会長や選手会役員を経験していましたから、自分のことだけでなく、チーム全体のことを考えられるようになっていたということもあるんでしょうね。チームが一つにまとまった結果として優勝を勝ちとった。みんな一丸となってその目標に向かったからこそ勝ち得たものが、こんなにも嬉しいものだと、初めて実感したんですね。

プロ野球選手としてチームのリーグ優勝に貢献する――という一つの個人の目標が達成されました。すると、やはり欲が出てくるんです。こんなにも幸せなビールかけなら、もう一度味わってみたい(笑)。それが25年にわたって現役を続けるモチベーションになりました。

ただ、残念ながら、その後チームは低迷が続きます。自分自身も右肘の手術などがありました。優勝できるチームにいたいと、横浜を去る選手もいました。低迷ぶりに業を煮やして離れていったファンも少なくないと思います。

フリーエージェント宣言を盾にチーム改造を迫った

三浦 大輔

2008年オフのFA宣言ではずいぶん悩んだものです。阪神から誘われて心は動いたんですが、もともと自分は「強いチームを倒すこと」を目指してきたんです。それが自分らしいと思って、横浜に残ることを決意しました。

強い相手を倒すためには、横浜というチームをもっと強くしなくてはならないのは当然のこと。チームを改革するために、いろいろと意見を言おうと思いました。自分としては1998年の優勝の美酒をもう一度味わいたかっただけなんです。これまでも選手会長として球団に意見を述べることはありましたが、2008年のFA宣言後の1カ月は悩んで悩んで、悩みぬきました。

球団は本気で優勝しようと思っているのか。優勝するための補強をどう考えているのか。なぜ退団する選手を引き留めないのか。若い選手を育てるためにどういう施策をとっているのか……。少々ずる賢いやり方かもしれないけれど、自分のFA宣言を背景にして、チーム改革についての疑問を伝え、フロントとも腹を割って議論しました。この1カ月ほど考え抜き、これほど悩んだ時期は他にないと思います。

その時、日頃の思いをぶちまけて、自分の言いたいことはフロントに十分伝えました。しかし、チームはすぐには変わるものではありません。チームに残留した次のシーズンも、その次のシーズンもずっと言い続けました。そうこうするうちに親会社が変わることになりました。DeNAの参入はチーム改革の一つのチャンスだったと思います。チームはガラッと変わりました。

よく、「厳しい勝負の世界で25年も投げ続けてこられたのはなぜですか」と聞かれることがあります。秘訣のようなものはありません。ただ言えるのは、今日以上の投球を次の登板機会にはお見せしたい、今シーズンの成績に甘んじることなく、次のシーズンにはもっと高みを目指したいと、常に自分を高める努力を続けてきたその積み重ねがあってこその25年でした。

自分のスキルを日々向上させることはもちろんですが、選手やフロントから信頼されるリーダーとして何をすべきかを常に考え続け、それを実行したこと、つまりリーダーとしての責任感もまた、長い選手生活を支えた要因の一つだったように思います。

人の話は一つも捨ててはならない。若手の引き出しを広げるのがコーチの役目

野球はチームプレーが重要なスポーツですが、ピッチャーというのは孤独なポジションです。それだけに若い頃はどうしても「自分が打者を抑えなければ」「自分が完投しなければ」と“我”が全面に出てしまうもの。それは決して悪いことではないのですが、チーム全体のことを考えるためには、それだけでは不十分です。私は2014年からは横浜DeNAベイスターズで投手として現役を続けながら、一軍のピッチングコーチも兼任するようになりました。

これは私の野球人生にとっても大きな転機になったと思います。コーチには若手の選手が経験していないことを伝えて、彼らの道を広げる役目があります。私の場合は現役兼コーチだったので、そういう立場だと「後進を育ててしまうと、結局、自分のキャリアが短くなる、位置が危うくなるのでは」と考える人もいると思います。

ですが、自分は決して若手に道を譲るつもりでコーチを引き受けたんじゃないんです。若手に負けるつもりはなかった。若手とベテランが高いレベルで競争すれば、チーム力は向上する。そう思ったからコーチを引き受けたんです。

目標は単に自分が長く続けることではなく、チームを優勝させること。そのためには若手が育たないといけないんです。

もちろん、若手選手が先輩やコーチのアドバイスを素直に受け入れられるかどうかは、その人の頭の“処理能力”にかかっていると思います。投手と一口にいっても、それぞれ腕のサイズも骨格も全然違う。左投げ、右投げ、オーバースロー、アンダースローなどタイプも違う。だからせっかくのコーチからのアドバイスも、そのままでは通用しないこともあるんです。

けれども、そこから自分にフィットするものだけを選択して、ピッチングの技術を向上させるためのヒントをつかむことはできる。頭を存分に働かせて、そのヒントをどれだけ多く盗むことができるか、それが成長の分かれ目になると思います。

プレーヤーは引き出しが多い方がいいに決まっています。言われたことをどんどん試す。そのアドバイスがすぐに自分に合わなくても、引き出しの中にヒントを詰めておけば、いずれそれが役立つことがあります。

三浦 大輔

現役時代から私は、他のジャンルのスポーツ選手、会社の経営者などと交流をもち、いろいろなヒントをいただいてきました。企業経営者が苦境をどう乗り越えてきたのか、お客さんのためにどんなことをしてきたのか。これはスポーツ選手にとっても参考になる話です。テレビのバラエティ番組に出演しても、タレントさんの話に耳を傾けるようにしました。長年にわたって人気を保ち続けるために、彼らは目に見えないところで凄く努力しているんです。

そんなとき思ったのは、「人の話は一つも捨ててはいけない」ということ。それぞれの人生や職業経験に裏打ちされた珠玉の言葉は、職種を超えて自分にいくつものヒントを与えてくれました。ジャンルの違いを問わず、いろいろ方の話に耳を傾ける姿勢はビジネスでも基本だと思います。

常に必要と思ってもらうためには、見えないところでの努力が大切

2006年に野球規則委員会が「二段モーションは不正投球」という見解を示し、日本野球機構もこれを承認するということが起こりました。まさに私のフォームが「二段モーション」とされたのです。ルールはルールですから、それに従わなければなりません。私はフォームの改造を余儀なくされました。

ピッチャーのフォームは長年にわたって体に染みつけてきたもの。変えるのは並大抵のことではありません。フォーム改造でダメになる選手もいますが、自分はそんなことでダメになったとは言われたくなかったので、必死で改造に努めました。

このこと一つとっても、一軍でやっている選手で、自分のフォームも含めて現状のピッチングに満足している選手なんて、誰一人いないはずです。細かいところ、見た目にはわからないところで、毎シーズンのようにタイミングやフォームを変えている。それがなければ前進はないんです。

だから少年野球でもよく話すんですよ。「自分は練習は嫌い。でも負ける方がもっと嫌いだった」って。上手くなるためには練習するしかない。フォームの改造もその一つです。どんなピッチャーでもすべての試合で零封することはできない。打たれることもある。そこで心が折れないことがプロの条件です。

よく歴代の監督との相性がよかったから、長く続けることができたのではないかと言われることもあります。しかし、私は違うと思うんですね。監督と選手の関係は“相性”という曖昧な言葉ではくくれないもの。プロの世界ですから、使える選手になれば、監督が替わっても使ってもらえる。常に使ってもらえる選手になるように心がけ、練習を積み重ねることがいかに大切なのか。これは会社員でも同じことだと思います。

いつかはベイスターズのユニホームで横浜に戻ってきたい

三浦 大輔

最近はテレビ地上波での中継放送がほとんどありませんから、プロ野球を観ていないなという人もいると思います。ですが、最近のプロ野球球団は、球場を“ボールパーク”に変え、お客さんを楽しませる工夫をコツコツと重ねています。球場に足を運んでいただければ、野球の面白さや深みをもっともっと知ってもらえて、楽しんでもらえると思います。そもそもファンを楽しませるというのは、プロスポーツの必須の条件ですからね。

今は解説者としての仕事が多いですが、そこでも私は全力投球します。何気ないプレーの凄さ、その背景にどんな努力や思考があったのかをテレビやラジオ、新聞などを通じて伝えていきたい。決めの一球が活かせるのは、その前に何十球もの配球があるから。一つのプレーの前の準備、本番の前の周到な準備こそが、プロの凄さだからです。

これから注目したい選手でいえば、横浜ではやはり筒香嘉智選手でしょうね。読売ジャイアンツの菅野智之選手は今球界で最も完成されたピッチャーだと思います。大谷翔平選手(ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)に代表されるように、選手の能力も私が野球を始めたころに比べたら格段に向上している。アスリートとしての異次元の身体能力の凄さを感じるのも、球場に足を運ぶ楽しみでしょう。

私もいずれはベイスターズの闘いの現場に戻ってきたいと思っています。横浜一筋で四半世紀。愛着もあります。しかも、引退時にあれだけ盛大なセレモニーで送ってくれたんですからね、もう他のユニホームなんて着られないですよ(笑)。(談)

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三浦 大輔

1973年生まれ。1991年ドラフト6位で横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)に入団。1998年には12勝をあげ、リーグ優勝に貢献。2004年アテネ五輪代表として銅メダルを獲得。2005年最優秀防御率、最多奪三振の二冠を達成など、同球団のエースとして不動の地位を築く。2007年にはプロ野球選手の社会貢献活動を表彰するゴールデンスピリット賞を受賞。2012年に通算150勝を達成した。NPBの現役最年長選手および、横浜大洋への在籍経験を持つ最後の選手として迎えた2016年、「プロ野球の公式戦で投手が安打を放った最多連続年数」というギネス世界記録を達成した後に現役引退を表明。現役引退後も野球に関わっていたいと、現在はテレビ・新聞などでプロ野球解説を行っている。