著名人から学ぶリーダーシップ著名人の実践経験から経営の栄養と刺激を補給

元ラグビー日本代表に学ぶ

自分と仲間を「信じる力」がすべての原動力

元ラグビー日本代表 大畑 大介

2015年ラグビーW杯イングランド大会での日本代表の活躍は、ラグビーファンはもとより日本全国に感動の渦を巻き起こした。その躍進に至るまでの礎を築いてきた元日本代表の大畑 大介氏に、ラグビーを通して培った人生観、指導者との出会いなどを伺った。

W杯日本代表の勝利は偶然ではなく必然だ

大畑 大介

2015年W杯では日本代表の後輩たちが頑張ってくれたので、私もメディアに呼ばれることが多くなり、大変忙しい日々を過ごしました。初戦の南アフリカ戦は勝てるとは思っていなかったのですが、私の予想以上に日本代表は素晴らしい闘いを世界に示すことができたと思います。

これはひとえに、数年間にわたる準備の差だと今では思います。日本は長い時間をかけてしっかりと足場を固め、骨組みを組んできた。それがあったからこその勝利なのです。日本代表の3勝という実績は決して偶然ではなく、必然だったといえます。

日本代表がここまで強くなった要因には、エディー・ジョーンズ監督の手腕があるのは確かです。私自身は直接指導を受けたことはないので、あくまでも外から見た感想ですが、エディーは言葉の力を大切にする監督だと思います。チームをどのように改革していくのか、どういう目標を持つのか、まずその方針にブレがない。目標を達成するためには、選手一人ひとりが今の段階で何をしなければならないのか、それを言葉できっちりと示す。かつてのような“黙って俺についてこい”というタイプの指導者ではなく、選手とのコミュニケーションを大切にする人だと思います。

明確な目標設定、ブレない信念、選手との対話──これらは後から述べるように、傑出した監督・指導者がみな共通して持っている条件だと思います。

2つの道があるのなら、あえてしんどい難しい道を選べ

大畑 大介

私は9歳でラグビーを始め、中学・高校から真剣に取り組むようになりました。東海大仰星高校は当時、ラグビーでは無名の高校でしたが、自分自身の成長がチームにプラスになる環境だと思ったので、あえてそこを選びました。

入学して最初にしたのが、毎日使う上履きに、みんなから見えるように目標を書いたこと。右足にはチームとしての「全国制覇」、左足には私自身の目標としての「高校日本代表」と。自分にプレッシャーをかけ、そこから逃げないという気持ちを上履きに込めました。

高校時代は土井崇司監督(現東海大テクニカルアドバイザー)に鍛えられました。練習は厳しかったけれど、選手との対話を重視する監督で、お前はどうなりたいのかと常に問いかけてくれ、その目標を実現するための提案もしてくれました。何より自分の頭で考えることの重要性をこのとき教わりました。そのおかげで、1年生のときに立てた個人目標である高校日本代表にも選ばれましたし、チームも私が卒業した後に、全国制覇を成し遂げることができました。

大学は京都産業大学を選びました。有名なエリート選手を集めてチームを作るのではなく、入学後に一人ひとりの選手を叩き上げてチームを強くするというのが方針のチームでした。だからこそ、練習量は日本一という評判を聞いていました。

ただ、私は物心がつく頃から父に「目の前に進むべき道が2つ分かれていたら、簡単そうに見える道ではなく、しんどい難しそうな道を選べ」とよく言われていて、それが私自身の信条にもなっています。それで厳しくつらそうな大学をあえて選んだわけです。

ラグビー部の大西健監督は早くから「同志社大学と互角に戦えるチームをつくる」「いつか大学選手権の覇者になる」と高い目標を立てて、チームを引っ張ってこられた監督で、その目標は決してブレることはなかったですね。私も監督の指導を受けながら、自分の実力が一日一日高まっていくのを実感していました。確かに練習量は半端ではなかったですが、練習量では絶対負けないという自信が、試合の最後になって効いてくるのです。あれだけ練習したのだから、絶対に勝てるはずだと。1997年、主将として臨んだ大学選手権で、ラグビーエリートの代表のような早稲田大学相手に、69-18と勝利を収めることができたのも、あの練習で培われた自信があったからこそだと思います。

スポーツでも仕事の世界でも、最も大切なのは、自分の中に何か信じられる核のようなものを持つことだと思います。

世界への挑戦、ハードワークで仲間の信頼を得る

その後、神戸製鋼コベルコスティーラーズで社会人ラグビーを続けます。私が入った当時、神戸製鋼はなかなかリーグ戦で勝てていませんでした。勝てないチームで自分に貢献できることは何か、とここでも私はしんどい方を選ぶ難しい選択をするわけです(笑)。高校・大学ではそれなりに知られた選手だったというプライドはここでは何の意味もありません。キャリアをいったんゼロにリセットして、チームの再建に取り組み、それを通してまだまだ実現していない私自身の目標に突き進んだのです。

2001年からは神戸製鋼に在籍したまま、シドニーのクラブでプレーをし、2002年に神戸製鋼を退社した後は、フランスのクラブチームに移籍しました。世界に出たのは、ひとえに次の自分自身の目標のためです。

もちろん最初は練習していてもボールなんて回ってこないですよ。1999年の香港セブンズ(7人制ラグビーの世界大会)でMVPを取ったことはみんな知っていましたが、それでも世界的には無名の選手ですから。海外の大柄の選手と一緒の土俵に乗ったら体力的に勝負できない。自分の個性を、例えば私の場合は足を活かすということですが、その長所を磨き、短所をカバーするという戦略を徹底しなければなりませんでした。チームの中でハードワークをいとわず、普通の選手がやりたくないことを率先してこなすことで、徐々にチームの信頼を得られるようになりました。

フランスでは外国人枠の関係で結局、試合に出場することはかないませんでした。その意味では私の海外チャレンジは必ずしも成功だったとはいえないのですが、世界の舞台を目指してチャレンジし続けることで、私自身が成長できた日々でした。

アキレス腱断裂でも辞めようとは思わなかった

大畑 大介

スポーツ選手にけがはつきものとはいえ、私はけがの多い選手でした。腰のヘルニア、右肩関節に痛みを抱えながら試合に出続けていましたが、2007年は本当に大変な年でした。まずその年の秋にワールドカップを控えた1月のトップリーグ最終節のヤマハ戦で右アキレス腱を断裂しました。2日後に手術をして、それから7カ月後、8月の日本代表壮行試合で復帰しました。ところがその直後、イタリアで行われたポルトガルとのワールドカップに向けた最後の調整試合で、今度は左アキレス腱を断裂。まさに満身創痍。この短い時期に左右のアキレス腱を断裂というのは、ラグビー選手でもなかなか珍しいと思いますよ(笑)。

2007年のけがで周囲は引退するものだと思ったようです。私も冗談で「もう辞めるわ」と話していました。でも、心の内では決してラグビーを辞めようとは思わなかった。けがもそれからの復活も、自分にとっての長期的目標である「W杯での勝利」のためのプロセスの一つでしたから。「W杯に出て勝利に貢献するために、なんとしてでも復帰したるねん!」と、あれほど強い思いを持ったことはなかったですね。

一度目のけがのとき、父から「こんなけがをさせるスポーツに出会わせてしまって、悪かった」と謝られました。子どもをラグビーに誘った自分を後悔していたのでしょう。でも、そんなことを言われて、それでラグビーを辞めてしまったら、父にもっと後悔の念を残してしまう。父の生き方を否定してしまうことになる。何より、自分自身も駄目になってしまうと思いました。

けがからの復活は、自分や父のためだけでなく、日本のラグビーにとっても重要なことだと考えていました。私がすぐに諦めてしまったら、ラグビーは危険なスポーツと思われてしまう。ラグビーを始めようという子どもたちの心をくじいてしまう。私が復活することで、みんなに勇気を与えたい。そういう思いもありました。だからこそ、しっかりとリハビリに励み、復帰することができたんだと思います。

誰一人無駄な人がいないラグビーというスポーツ

大畑 大介

正直、他のスポーツに本気で取り組んだことがないので、別競技との比較でラグビーのここが良い悪いとは言えません。ただ、自分がラグビーをやって良かったと思うのは、ラグビーを通して社会を体験できたということです。

ラグビーには15個のポジションがあって、選手はそれぞれの役割を果たします。個々の役割が大きな戦略の中で活かされてこそ、チームは勝利できるのです。例えばスクラムでフォワードが押し込むからこそ、スクラムハーフはボールを確保でき、ハーフ陣の的確な判断があればこそ、バックスが展開できてラインを突破できる。先発の選手だけではありません。リザーブの選手は、いつ呼ばれてもすぐにゲームに入っていけるように絶えず準備しておかなければなりません。選手だけでなく、コーチや監督、スタッフの誰もがみんなチームの中で必要とされています。一人でも欠けたらチームとして成り立ちません。

これって考えてみれば、社会の縮図ともいえるんじゃないでしょうか。会社組織にも似ていると思います。商品を企画して、設計して、製造して、販売して、顧客のサポートをして…と、それぞれが自社の製品に愛情を持ち、役割は果たしながら、会社にとって欠かせない存在になっている。

そういう意味では、私はラグビーを通して社会というものを学んだ気がします。

もう一人、世界を見つめていた指導者──パウロ・ナワル

大畑 大介

前段でも高校・大学時代の指導者の話をしましたが、他にも私にとって忘れられない指導者がいます。セブンズ(7人制ラグビー)の日本代表を長く監督として指導してきたパウロ・ナワルさんです。7人制ラグビーでは世界中の誰もが知っているスーパースターの一人ですが、そんなことを自慢するような人ではありません。当時の7人制日本代表はみんなファミリーのように仲が良かったんですが、その中でもパウロは、威厳はあるけれど、自由奔放な長男という感じでした。

私はまだ選手としての評価が低かったときに、彼に会いに行き、「僕はまだまだ成長できる。セブンズの代表に選んでくれ」とアピールしました。私は黙っていても誰かが見ていてくれてチャンスが平等に回ってくる、と考える方じゃないんです。目標を立て、自分を信じること。その自信を外にも見せることが大切だと思っていました。たとえそれがその時点では根拠のない自信であっても、絶えず監督やコーチにアピールし続けることで、自分の技量も高まっていくものなのです。彼はそういう私を信じてくれた。そして、自分が世界のどこに位置づけられるのか、何を目指すべきかを知っておくべきだと、世界を見渡した視点で話してくれました。高校の土井監督、大学の大西監督と共に、ラグビー人生で出会ってよかった、自分にとってかけがえのない指導者です。

ラグビーを一過性のブームに終わらせないために

今私は、大阪の追手門学院大学の客員教授を務める傍ら、女子ラグビー部にゼネラルマネージャーという立場で関わっています。チームが今前を向いているのか、勢いが停滞しているのか、そういう雰囲気は中にいるより、外から見る方がよく見えるもの。若い選手は小さな成功体験を積むことが重要なので、チーム練習に付き合うときは対話もしっかりしています。

みなさんご存じのように、女子セブンズ日本代表(サクラセブンズ)は、男子と共にリオデジャネイロ五輪の出場権を獲得しました。2015年11月のアジア予選で女子ラグビーというものを初めて見た人も多かったと思います。15人制男子のW杯の活躍と共に、サクラセブンズの活躍も、日本のラグビー熱の復活に大いに貢献していると思います。

にわかファンが増えたのはいいことだと思います。だって、最初は誰もが“にわか”じゃないですか。ただ、これを一過性のブームに終わらせないためには、プレーヤーがしっかり頑張らないと駄目。また、プレーヤーが気持ちよくプレーできる環境づくりも大切でしょう。

さらに、私自身も含めてラグビー関係者のメディアなどでの発言がこれからはまずます大事になります。中でもW杯など一段上の世界を見てきた人の言葉は深みがある。五郎丸歩君もこれからも公人として、立ち振る舞いが注目されていくでしょう。

トップリーグの今シーズンは、W杯で活躍したすごい選手たちがプレーすることでも注目を浴びています。ただ、これから初めてトップリーグを見ようというファンの基準はすっかりW杯の試合が基準になっているので、選手たちもウカウカしてはいられない。目の肥えたファンを満足させるようなプレーを、これからも続けていってほしいと思います。(談)

スポーツ編 一覧へ

大畑 大介(おおはた・だいすけ)

1975年大阪市生まれ。東海大仰星高校時代に高校日本代表に選出。50m5秒9の俊足を活かし、京都産業大学時代に日本代表入りを果たし、98年以降は神戸製鋼(コベルコスティーラーズ)で活躍。ラグビーW杯に2回出場するほか、海外のクラブにも挑戦。テストマッチ(国代表同士の公式試合)の通算トライ数世界記録を持つ。2011年に引退。現在は2019年W杯のアンバサダーを務めるほか、追手門学院大学の客員特別教授に就任し、スポーツによる地域社会活性化などに取り組んでいる。

(監修:日経BPコンサルティング)