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元スピードスケートのメダリストに学ぶ

自分の限界に常に挑戦。
ほほ笑みを絶やさず戦い続けたスケート人生
~途中でやめなくてよかった。スケートには感謝してもしきれない~

元スピードスケート選手 岡崎 朋美

リレハンメル、長野、ソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバーと5大会連続で冬季オリンピックに出場。長野五輪ではスピードスケート女子500mで銅メダルを獲得した岡崎朋美氏。20年以上もの長いスケート人生を振り返ってもらいながら、モチベーション維持の方法などを伺った。

引退後は後輩たちを応援し、子供たちにオリンピックの経験を伝える

2013年12月のソチ五輪代表選考会を最後に、スピードスケートの第一線から引退しました。「娘と一緒にオリンピック」という夢はかなわなかったけれど、自分としては何度も限界に挑戦し、やるべきことはやったという満足感はありました。

選手としては行けなかったけれど、ソチ五輪には応援という立場で参加しました。観客席ではしゃいでいる姿が、テレビによく映ったと思います。海外の大会では日本語での応援は励みになりますからね。少しでも後輩たちの力になれるよう、名前を呼び、笑わせてリラックスしてもらおうと、私も頑張って旗を振っていたんですよ(笑)。さらに、オリンピックを外から観戦することで、これから世界のスケート界がどうなるかをこの目で見ることができました。

引退後は、娘の幼稚園への通園や家事など、母としての仕事だけでなく、企業や学校からの依頼で講演活動もするようになりました。特に小中学生には、もっとスポーツを好きになってほしいと思いながら話をしています。最近の子はゲームなどインドアで過ごす子が多いって聞きますしね。

スケートという競技でどこまで行けるのかを確かめたくなった

元スピードスケート選手 岡崎 朋美

私の小中学校時代は、まるで野生児のように男の子と一緒に野山を駆け回る毎日。あるとき、スポーツの得意な転校生の女の子が冬にスケートをするというので、ついていったのがスケートを始めたきっかけです。

高校時代は個人種目ではインターハイ4位が最高の成績。高校を卒業したらスケートをやめるんだろうな、と思っていました。高校2年生のとき、全日本スプリント選手権が釧路であり、私も部活の仲間たちと一緒に見に行ったんです。そこで偶然にも、橋本聖子さんを指導していた富士急行スケート部の長田照正監督が、男の子みたいな私の太ももに注目して(笑)、「卒業したらうちに来ないか」と誘ってくださったんです。

私の身体能力がスケートという競技でどこまで開花できるのか、その答えを見つけたい、という気持ちになりました。大学に進学したつもりで、最低4年間は富士急行で頑張ろうと、その門をたたきました。

長田監督は世界を自分の目で見て体験して、その上で練習方法を考えてきた人。練習や試合では厳しいけれど、普段は冗談をよく言う普通のおじさんです(笑)。オンとオフの使い分け方については一家言ありました。練習はきつかったけど、そのおかげで心肺機能は鍛えられましたね。

橋本聖子さんは、私にとっては神様というか、憧れの存在。直接、手取り足取り指導されたことはないけれど、聞きに行けば何でも教えてくれましたし、私がその背中を見ながら技術を盗む、格好のお手本でした。

合宿ともなれば、スケート部の全員が同じホテルで寝食を共にします。私は同級生が一人しかいなかったけれど、後輩たちは同級生の間での競争がすごかった。そこから私を抜こうとする人たちも出てきて、とても高いレベルでの切磋琢磨がありましたね。

外に目を転じれば、私には同学年に島崎京子さん(当時、三協精機所属)というライバルがいました。高校生のときは勝てなかったけれど、その後、追いつき、追い越すことができました。ライバルは大事ですよね。一人では行き詰まってしまうけれど、二人いれば切磋琢磨できる。最近の男子スケート界にも、長島圭一郎、加藤条治選手(共に日本電産サンキョー)のような、いい意味でのライバル関係がありますよね。

スラップスケートの登場。完全に攻略するため、次のオリンピックを目指した

元スピードスケート選手 岡崎 朋美

入社後3年目にワールドカップに出られるようになりました。世界を経験することで、スケートの面白さをより深く感じるようになりました。これまでは与えられたメニューをこなすだけだった練習も、自分の頭で考えながら組み立てるようになりました。「世界は楽しい。もしかしたら、オリンピックも楽しいかもしれない」──そんな気持ちがだんだん芽生えてきたんです。

具体的には、聖子さんが現役の間に一緒の舞台に立ちたいと思うようになりました。そして、それは1994年のリレハンメル五輪で実現しました。私と聖子さんは7歳離れているので、ずっと一緒にスケートはできない。自分が女子スケート界を引っ張っていかなければならない、という責任感も生まれました。

リレハンメルでは14位でしたが、間にワールドカップ初優勝が入り、そして、選手として脂の乗り切った26歳のときに、長野五輪(1998年)を迎えました。ただ、決して順調な道のりではなかった。例えば、長野五輪の1年前にスラップスケートという新しいスケート靴が登場します。氷を蹴るときにかかと部分の刃が離れる仕組みです。これまでのスケート靴では私が絶対負けることのなかった海外の選手が、スラップスケートに転向した途端に2秒以上記録を縮めて驚きました。最初は慣れなかったですね。まるでスリッパを履いて走るような感覚なんです。それでも何とか銅メダルが取れてホッとしました。

メダルを取れたのはうれしい半面、メダリストとしての責任も生まれます。日常生活においても人々の見本にならなくてはならない。それがちょっとプレッシャーでしたね。それでもそれに潰されることなく、次のオリンピックに向けてモチベーションを維持できたのは、スラップスケートでメダルを取ったけれど、まだ攻略はしていない。このスケート靴にフィットすれば、自分はもっと記録を縮めることができるんじゃないか、という思いがあったからです。自分の体もこれが限界じゃない。26歳以降もまだまだ進化できるはずだ。そう思えたからです。

ヘルニアを治すのも、自分にとっては一つの挑戦

元スピードスケート選手 岡崎 朋美

「長い競技人生の間、モチベーションが途切れることはなかったか」とよく聞かれます。これについては、自分が選手として“遅咲き”であったことが結果的にいい方向に働いたんだと思います。もし、10代や20代前半でトップになっていたら、そこで燃え尽きてしまって、若いうちに引退していたかもしれません。さらに、橋本聖子さんのような、選手としても人としても目標にする先輩がいたことも幸いでした。だから迷うことなく、息長く、絶えず高いレベルに挑戦しながら競技を続けることができました。

ただ、スポーツ選手ですから、体の不調やけがは避けて通ることができません。私もソルトレイクシティに向けて調整を続けていた2000年に、椎間板ヘルニアを発症しました。当時のスケート界では「ヘルニアの手術をして復活したトップアスリートはいない」と言われていましたが、ヘルニアを治すのも自分にとっては一つの挑戦と考え、「1年は棒に振る覚悟で、ゆっくり回復していこう」と、楽観的に考えて手術に踏み切りました。

手術後にリハビリしていると、どこかで冷静に自分の体を見ている自分がいました。リハビリもこうやったらこんなふうに体が動くようになる。食事のメニューを変えると、体にもそれが表れる。そんなふうに自分の体を使って試しているうちに、リハビリ自体が面白くなってきました。ちなみに外国人選手には自分自身のトレーニングや、リハビリの経験に触発されて、その後医者を目指す人もいるんですよ。

2002年のソルトレイクシティ五輪では6位入賞しました。次の2006年はトリノ。トリノ大会に出られれば、手術をしてからちょうど6年。ヘルニア手術を乗り越えた姿をみんなに見せたい、という思いで頑張りました。

出産後、体幹トレーニングでアスリートの体に戻す

元スピードスケート選手 岡崎 朋美

30代になっても、年齢の限界ということはあまり意識したことがなかったですね。トレーニングをしなければ衰えますが、トレーニングを続ければ、体力は維持できました。もし、私のスケーティング技術が世界トップクラスだったら途中でやめていたかもしれないけれど、自分でもスケーティングは下手くそ、世界でも三流の選手だという自覚がありました。それでも、練習すれば少しずつタイムが縮まるのが励みで、スケートを続けていました。結局、自己ベストの記録は38歳で出しましたからね(笑)。

トリノでは4位止まり。「神様はもう少し私に現役を続けさせたいのだな」と思って、2010年のバンクーバーを目指すことにしました。
バンクーバーではエッジや氷の問題など、環境面でいい準備ができず、成績は振るいませんでした(500m 16位、1000m 34位)。ですが、その後に結婚し、子供も生まれ、私生活は充実していました。ママになってもオリンピックに出たいという気持ちは揺るぎませんでしたね。主人も家族も、会社もバックアップしてくれました。自分としてもここまでやってきたし、狙えるものは狙わないと面白くない。チャンスがあるんだったらモノにしようって考えでした(笑)。
海外ではママさんのアスリートは多いですよ。外国の人たちはその競技でご飯を食べている人が多いから、ハングリーさがある。また、多くのスポンサーがきっちりサポートしてくれるという面もママさんアスリートが多い理由です。自分が成功することで、日本でもママさんアスリートの道を広げたいと思っていました。

アスリートに戻ると決めた後、一番苦労したのが出産後の状態からアスリートの体に戻すことです。脂肪は妊娠時の母体には大切なものですが、それをいったん落としてから、さらにその上に筋肉をつけなければなりません。骨盤が広がるなど体のゆがみはトレーナーのアドバイスをしっかり受けながら治しました。体幹を元に戻す、ということが一番重要でした。

選手層を広げ、個人の力を伸ばす。子供たちにオリンピックの夢をつなげたい

小学生の頃、友達と一緒にスケートを始めてから30数年。富士急行に入ってからでも20年以上。スケートでいろいろな人と出会い、世界を見ることもできました。さまざまな試練を乗り越えて人間的にも成長できました。途中でやめなくて本当によかった。スケートには感謝してもしきれないぐらいです。

スケートにはチームパシュートのような団体戦もありますが、基本的には個人競技です。団体戦でも、結局一人ひとりの強さがないと勝てません。日本のスピードスケートがソチで1個もメダルが取れなかったことは、深刻に受け止める必要があります。やはりこれからは、個人の力を高めることが重要。それぞれの選手がひるむことなく、もっと高い目標を目指してほしいですね。

その一方で、選手の裾野も広げていきたい。寒い地方出身の選手が多いですが、南の方でも屋内型の施設を造ればやれないことはない。ショートトラックでレギュラーが難しい選手でも、スピードに転向すれば伸びる可能性もあります。そんなふうにして選手層の裾野を広げることが大切だと思います。
私がオリンピックに出たことが、これからの子供たちの目標になってくれたらうれしい。2014年3月、長野市のエムウェーブのイベントで子供たちと一緒に滑ったら、子供たちが集まってきて離れないんですよ。「スケート好き?」と聞いたらみんな大好きだと言う。「オリンピック出たいよね」と聞いたら、みんな出たいって。私もうれしくなりました。

スピードスケートは自分の力を極限まで試せるスポーツ。その楽しさをいろいろな形でこれからも伝えていきたいですね。(談)

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元スピードスケート選手
岡崎 朋美(おかざき・ともみ)

1971年、北海道清里町生まれ。釧路星園高校から、富士急行スケート部へ。1994年から2010年まで5大会連続でオリンピックに出場。長野五輪では日本女子短距離として初めてメダルを獲得し、「朋美スマイル」は全国的に人気となる。トリノ五輪では日本選手団主将、バンクーバー五輪開会式では日本選手団の旗手を務める。2013年12月に現役引退を表明。富士急行での肩書は、営業推進室次長。

(監修:日経BPコンサルティング)