著名人から学ぶリーダーシップ著名人の実践経験から経営の栄養と刺激を補給

元プロテニスプレーヤーに学ぶ

自分の持てる力をどれだけ出し切るか。
杉山 愛式、勝利の方程式
~自分を律し、観衆を味方につけ、ゲームの流れを読む~

元プロテニスプレーヤー 杉山 愛

グランドスラム(4大国際大会)で華々しい活躍をしてきた杉山 愛氏だが、すべてが順風満帆だったわけではない。特に2000年から2001年にかけては、ダブルスでは勝ててもシングルスでは勝てないという大スランプを経験している。その泥沼から杉山氏はいかに脱することができたのだろうか。

現役時代は良い習慣を試し、採り入れた

テニスと出合ったのが4歳の時。最初は習い事の一つでしたが、だんだん面白くなって、週に一回だけでは満足できず、スクールを掛け持ちしていました。近所の本格的なテニスアカデミーに通うようになると、他の習い事はやめ、テニスに打ち込むようになりました。何よりもボールを打った時の打球感が好きでしたね。

勝ち負けには小さな時からこだわる方でした。負けるといつも悔しくて泣いてばかりいましたが、練習していくうちに、勝てなかった相手に勝てるようになったりして、少しずつ自分が上手くなることが楽しかったですね。7歳のころには漠然とですが、将来はプロのテニスプレーヤーになりたいと考えるようになりました。

試合をすると、「度胸があるね」とよく言われましたが、私は意外と試合になると緊張するタイプ。若い頃は、雰囲気に飲まれて本来の力が出し切れないままゲームが終わってしまうこともよくありました。

それで色々と考えるようになりました。呼吸法も工夫したし、体をつくるのに良いといわれるものは何でも食べました。何を食べて、どのくらい寝たら次の日の調子がいいか。自分を実験台にして、自分に向いているようだったら、その習慣を採り入れる。それを日課として実践していきました。毎日やるべきことがどんどん増えていきましたが、それが日常生活のリズムをつくってくれました。そうなると、自分に自信が持てるようになり、調子のムラも少しずつ減っていくのを実感することができました。

結果的に、大きなケガもなく長い間現役としてプレーできた秘訣があるとすれば、この杉山 愛流のルーティンワークがあったから。トレーニングや試合の度胸はもちろんですけれど、日常生活の地道な積み重ねこそが試合の結果に表れるのだと思います。

世界転戦が当たり前。アウェイをホームに変えていく

元プロテニスプレーヤー 杉山 愛

プロのテニスプレーヤーは、海外でプレーする機会が多いです。私も多い時は1年の内8カ月は海外で過ごすこともありました。プロになったからには海外で生活し、プレーすることは当たり前。これを億劫がってはいられません。

テニスの世界の公用語は英語です。早くから自覚的に英語の勉強を重ね、ツアー生活の中でどんどん使うことで、言葉を習得していきました。英語さえできれば生活はなんとかなりますからね。

ホテルにいる時は、部屋に自分の好きなエッセンシャル・オイルの香りを漂わせ、好きな音楽をかけます。これも私のルーティンワーク。ゆっくり観光する時間はないのですが、それでもよく現地のレストランで美味しい料理を楽しみました。

重要なのは、アウェイの環境をホームのように変えて、楽しむこと。さらに、1年間のロングスパンでコンディションやモチベーションを保つために、スケジューリングも大切です。ツアーの選択は自分でしますし、どの大会に何日前に現地入りするか、という準備も自分で行います。勝つのも負けるのも準備次第ですね。

まだ駆け出しのころは、観客も「誰なの、この日本人?」という感じで、応援なんて全然ありません。完全アウェイ状態。それでも上位の選手相手に一度でも勝つと、観客の雰囲気がガラッと変わります。「実は前からあなたのこと、応援してたのよ」って(笑)。どこへ行っても、観客の声援を自分への応援だと思うこと、そうして、アウェイをホームのようにしてきました。

テニスはチームワークのスポーツです。コーチやトレーナー、ヒッティングパートナーなどの支えがあって初めて、試合で力を発揮できるのです。2001年以降は、母をコーチにつけましたが、言いたいことははっきりと言い合い、コミュニケーションを密に行いました。以心伝心、よりコミュニケーションをしっかりするチームだったと思います。

ゲームに流れるエネルギーを読み取る

コミュニケーションは、ダブルスのパートナーとの間でも重要です。私の場合は、この人と組めば勝てるというよりも、この人とだったら楽しくツアーができるという基準でパートナーを選びましたから、その友情関係は今でも続いています。特に、キム・クライシュテルス選手とは良いパートナーでした。

彼女は私より8歳年下ですが、ユーモアもあるし、考え方も大人。出産後も全米・全豪オープンで優勝するほどエネルギーに溢れた人。プレーヤーとしても人間としても彼女から学ぶことはとても大きかったですね。

ダブルスの試合では、二人の好不調の波が合わないことはよくあります。私はそんな時でも、決して下を向かず、常に対戦相手に脅威を与えられるように心がけていました。いつかはゲームの流れが自分たちに向いてくるから、それを待ち、つかんだら離さない。ゲームを通して流れるエネルギーのようなものがあるので、その流れを読むことが重要です。

元プロテニスプレーヤー 杉山 愛

調子のいい時は、たとえ相手よりセットを失っていても、負ける気がしないというか、勝てそうな気持ちになることがあります。それは、自分の思い通りにボールが飛んでいる時。惜しくもアウトにはなっているけれど、ボールはきちんとコントロールできている。そういう試合は、たとえ負けたとしても、次の課題が見えています。

反対にたとえ勝っていても、不安で不安でしょうがない時もあります。そんな時はやはり、ボールが必ずしも思い通りのところに飛んでいない時なんですよね。

つまり、勝ち負けというよりも、自分の持てる力がどれだけ出せているかが大切。若い頃は勝ちにこだわる気持ちが強かったのですが、25歳のころからは、自分の本領をどこまで発揮できるかが重要だと、テニスに対する考え方も少し変わるようになりました。

初めての大スランプで追いつめられたテニス人生

日々の食事や睡眠、さまざまなトレーニングやケアの方法を試し、良いものは採り入れて、それをルーティンワークにしてきたとお話しましたが、それを自覚的に意識するようになったのは、やはり大きなスランプを経験したからだと思います。

ちょうど2000年、私が25歳のシーズンです。25歳というのは女子テニス選手にとっても大きな曲がり角で、当時はこのくらいの年齢で引退する選手が多くいました。幸い、ダブルスはジュリー・アラール=デキュジス選手と組んで全米オープンに優勝し、日本人選手として初めて女子テニス協会のダブルスランキングで1位になるなど絶好調だったのですが、シングルスでは全豪オープンのベスト8進出、全仏オープンの4回戦進出などがあったものの、他はほとんど勝てなくなってしまいました。

シングルスですぐに負けてしまうと、ツアーの過ごし方もどうしていいのか迷いが生じます。コーチとの関係も悪くなり、自分がやっていることは無意味ではないのかという疑念も生まれます。これほど追い詰められたのは、テニスをしていて初めてのことです。

思い余って母に電話で訴えました。「どこに向かえばいいのかが分からない。もうテニスを辞めてしまいたい」と。母は「辞めるのは簡単だけれど、ここで辞めたら、他に何をやってもすぐに諦めることになるんじゃない?」と言ってくれました。「どう頑張ればいいのかが見えない」という私の言葉に、ただ一言、母は「愛には見えないかもしれないけれど、私には見えるわ」とだけ言いました。

スランプに陥る前には何らかのサインがある。それを見逃さないこと

元プロテニスプレーヤー 杉山 愛

その一言で私は救われました。スランプからの脱出方法が、自分には見えないけれど、ちゃんと見えている人がいるんだ、と。確かに母の言う通りあの時の自分にはまだ「やり切った」という感覚がありませんでした。それを感じるまでは引退などと軽々しく言葉にすべきではないと、母の助言で目が覚めたのです。

その時の母に私の何がどのように見えたのか。後で聞いた話ですが、身体の動きやリズムに、本来の私らしさが見られなくなっていたというのです。母はテニスの経験はありませんが、学生時代はスキー部のキャプテンをしていた人で、アスリートの身体のメカニズムをよく知っていました。

それからは、母をコーチに指名し、一緒にツアーを周りながら徐々に調子を戻していくことができました。よい習慣をルーティンワーク化できたのもそれからです。今思えば、25歳までは何となくうまく来ていた私のテニス人生ですが、あのスランプがあって、そこで改めて自分に向かい合うことができたからこそ、その後の10年も戦うことができたのだと思います。あのスランプがなければ、シングルスの世界トップ10入りも難しかったでしょう。

今思えば、深刻なスランプに陥る前には、微かだけれども何らかのサインがあったはず。自分の心身に起きていることには必ず意味があるのですから。それを早めに察知し、問題を掘り下げていくために自分と向き合う時間がもっと必要だったのだと思います。その意味では、スランプは神様が私にくれたチャンスだったのです。

「人間力」が備わっていなければ世界では通用しない

2009年の時、34歳で引退しました。テニスを始めたのは4歳の時ですから、30年間のテニス人生。そのうち17年間をプロとして過ごすことができました。テニスを通して感動も味わったし、どん底の苦しみも経験しました。けれどもこんなに楽しいことはなかったと今になっては思います。

この経験を後進に伝えるのが今の私の仕事。グランドスラムで活躍する女子選手を輩出することを目標とした「Road to GRAND SLAM(略称RTGS)」というプロジェクトもその一つです。国内にいるジュニアのトップ選手たちに声をかけて選考し、年に複数回、キャンプを実施しています。

後進の指導で気をつけていることは、選手は強さも弱さもそれぞれですから、可能な限り一人ひとりの個性を大切にして向き合うということです。一人ひとりとコミュニケーションを重ね、選手ごとに何が必要なのかを見極めるようにしています。

もちろん、選手と指導者の関係は、コーチが一方的に教えてどうにかなるものではありません。お互いに相性があるし、何より選手が自分で納得しないと、トレーニングの効果も上がらないのです。ですからいつも「自分発信」が大切だということはよく話しています。

むろんテニスの技術だけがいくら向上しても、世界で戦うことはできません。栄養の摂取や身体のケアの方法はもちろんのこと、きちんと挨拶ができる、人と積極的にコミュニケーションが取れる、自分の気分をコントロールできる、など、一言でいえば「人間力」が備わっていなければ世界では通用しないのです。これはきっと世界で活躍するビジネスパーソンなら、分かっていただけると思います。

元プロテニスプレーヤー 杉山 愛

私の時代にはプロとして生きるためには世界に出るしかなかった。最近は国内だけでも世界ランキングのポイントを稼げる大会がありますが、せっかくの才能を国内だけに止めておくのはもったいない。

男子の世界では錦織圭君という逸材が現れ、それを目標に多くの若手も育ってきました。体格も自分とそう変わらない選手が世界で活躍するのを見ることで、国内の選手は大きな刺激を受けているはずです。私にとっての伊達公子さんがそうだったように。彼女にできるのなら、私にできないはずはない、と思ってここまで頑張ってこれたのですから。

確かに世界での戦いはタフですが、高い目標を設定し、そのために今何をすべきなのかを考えながら、ぜひこれからの若い人たちには世界の舞台にチャレンジしてほしいと思います。 (談)

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元プロテニスプレーヤー
杉山 愛(すぎやま・あい)

1975年生まれ。4歳でラケットを握り、15歳で日本人初の世界ジュニアランキング1位に。17歳でプロに転向し、グランドスラム(4大国際大会)で4度のダブルス優勝を経験。グランドスラムの連続出場62回の世界記録を樹立し、オリンピックには4度出場した。最高世界ランクはシングルス8位、ダブルス1位。国際公式戦勝利数はシングルス492勝、ダブルス566勝。公式戦通算1772試合。2009年10月現役を引退。2011年にはジュニア育成プロジェクト「Road to Grand Slam」を始動。著書に『勝負をこえた生き方』などがある。

(監修:日経BPコンサルティング)