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俳優・映画監督に学ぶ

何事も本気でないと伝わらない。
映画に大切なのは監督の意思

俳優・映画監督 竹中直人

俳優として確固たる地位を築きながら、映画監督としても幅広く活動する竹中直人氏。テレビや舞台、映画という共同作業の現場で、さまざまな不安を抱えながら、いかに監督やスタッフとコミュニケーションを重ね、かつ監督としてリーダーシップを発揮してきたのか。自分を、そして現場をマネジメントしながら、演技という行為自体を楽しむ術を伺った。

「役作り」は必要ない。芝居の技術を持たない人ほど面白い

竹中直人

この世界に入って36年になります。僕は映画監督もやりますが、基本的には役者なんだと思います。ただ、役者としての自分は、役作りってあまり考えたことがないんですよ。というか、“役作り”って言葉が嫌いです。役者に役作りなんて必要ないんじゃないか、といつも思っています。ふだん生活しているときは、相手に合わせて自分も変わるじゃないですか。相手の呼吸とか話しぶりに合わせて会話のリズムも変化する。それと俳優も同じだと思うんですよね。最初から「こういう役作りをするんだ」とイメージを固めてしまうと、芝居が生きてこないというかな。もっと現場の空気の中で変化する振り幅があってもいい、と思うんです。もちろん、いろんなタイプの役者さんがいるから、一概には言えないけれど、僕はそう思います。

舞台では同じ演技を何度も繰り返します、同じ台詞にしても日によって印象が変わることもある。それは役者自身ではなく、観客が感じることですよね。だから、役を作るのは役者ではなく、それを観る側だと思う。

同じ芝居を続けているとだんだん役が自分のものになっていくということがありますが、僕はそこはあまり重視しない。それよりも、「この人は何を面白いと思って演技しているのか」というところが気になりますね。その意味では、芝居の技術を持たない人こそ、面白いと思う。

例えば、佐々木希さんと生瀬勝久さんと一緒にやった舞台『ブロッケンの妖怪』(2015年、倉持裕演出)。希ちゃんはこの作品が初舞台でとても無防備な状態だった。それがとても面白かったんです。技術を持たないただそこにいる状態で舞台に立つ素晴らしさというのかな。でも、希ちゃんも、きっとその後、技術を身につけていったと思うので、彼女自身もあのときの芝居はもう二度とできないと思うんですけどね。

僕が大切だと思うのは、役を越えたところでの、共演者・スタッフとの関係。誰がどのようなことを思い、この現場にいるのか。何を見ようとしているのか。それを感じることで、役は常に変化していく。だから飽きないんですよね。

監督の人柄や眼差しに導かれて、自分をありのままに表現する

竹中直人

僕は子どもの頃から集団の中で活動するのは苦手でした。一人で漫画を描いているほうが性に合っていた。通信簿にはいつも「協調性がない」と書かれていました。ただ、芝居も映画も集団でものを作っていく仕事です。この仕事を続けるからには、協調性が必要ですからね。性格的に例えようのない孤独感が襲ってくることもあります。でも、現場での役者やスタッフとの出会いで、自分の時間が豊かになることのほうが圧倒的に多い。だから、この仕事を続けていけるんだと思います。

現場の中で特に大切にしたいのは、監督とのコミュニケーションですね。たんに言葉を交わすというだけでなく、監督本人の人柄や眼差しに何を感じるか。結局、監督と役者の関係というのは、「この人のためなら……」と思えるかどうかがすべてだと思う。それは、段取りや技術を超えたもの。それが僕にとっての演技であり、芝居であり、映画なんです。

たくさんの監督と仕事をしてきましたが、その中で、一人挙げれば、『ファンシィダンス』(1989年、大映)、『シコふんじゃった。』(1992年、東宝)、『Shall we ダンス?』(1996年、東宝)でご一緒した周防正行監督ですね。監督は最初「竹中は人の言うことを聞かない役者」というイメージが強く大嫌いな俳優だったそうです。でも「それは誤解だった」と周防監督は言ってくれました。実は僕ほど、監督の指示に従う役者もいないと思います(笑)。そして周防監督と一緒に仕事をしてとても相性が合った。監督は僕が芝居をする様子をとても嬉しそうに見つめてくれて、「竹中直人にやりすぎはない」という、僕にとってはとても衝撃的な言葉を贈ってくださった。

それと、これは『Shall we ダンス?』のときですが、初日の撮影があの役所広司と一緒のシーンでした。僕はものすごく緊張して何度もNGを出してしまったんです。あの頃は35ミリフィルムで撮っていましたからフィルム代がとても高い。何度もNGが続くと大変です。追い詰められた僕はもう「すいません」を繰り返すしかない。でもそのとき監督は「いや、竹中さんのためにフィルムがある」と言ってくださった。周防さんご自身は覚えていないみたいなんですが、役者冥利に尽きる言葉でした。

映画と向き合う本気度が、現場をリードする

竹中直人

1991年、34歳のときに、『無能の人』という映画で初めて監督をしました。デビューの頃は、1年で消えると思っていたのが、なんとか俳優の仕事も続けられて、生活のレベルも落ちることはなかった。ある日、プロデューサーの奥山和由さんと話していたとき、僕が映画の話ばかりしていたんです。すると、奥山さんが「そんなに映画が好きなら、一本撮ってみますか」と言ってくださった。「ほんとですかあ」と僕はすっかり舞い上がってしまいました。

僕自身が主演。共演は憧れの女優・風吹ジュンさん。他にも原田芳雄さん、三浦友和さんとか、大好きな俳優さんたちがカメオ出演してくれました。撮影や美術や照明のスタッフも、これまでの作品を観て、ぜひ一緒にしたいと思っていた人々ばかり。映画を撮っている間はずっと夢を見ているような日々でした。まるで学生時代8ミリ映画を撮っていたときと変わらない楽しい日々でした。キャスティングもスタッフを決めるのも、僕を信じてすべて任せてくれた奥山さんには感謝してもしきれないですね。異業種監督という言葉のハシリのような映画でしたが、現場のスタッフはみな温かくて、最高の現場でした。

監督をやってみてあらためて思うのは、映画というのは脚本とキャスティングでほぼ決まってしまうということです。キャスティングされた役者さんがただカメラの前に立ちただセリフを言ってくれたらそれでいい。キャスティングで役の90%は出来上がっているんです。

色々なアングルで同じシーンを何度も撮影して、後々編集でパターンを変えて出来るように素材撮りをする監督もいますが、僕の現場ではカメラワークが決まればそのショットのみです。このアングルで撮ると決めたらそれが僕の場合は一番ですね。素材撮りは苦手です。現場で生まれたそのカットのみに集中するほうが好きですね。

もちろん監督にはリーダーシップが不可欠です。監督がずっと悩んでばかりいたら、誰も付いていけなくなってしまいますからね。でも悩み方が色っぽい監督は別です(笑)。「この現場(作品)は何に向かって撮っているのか」という監督の意志、映画への想い、それが本気でないと伝わらない。中途半端では絶対に伝わりません。現場でどれだけ無駄を排除するかも大切です。使いもしないカットをたくさん撮って、みんなに無駄な時間を使わせたくないという思いもありますからね。

『無能の人』以来、7本の映画を撮ってきました。今撮影しているのが、漫画家・大橋裕之さんの初期傑作集をベースにした『ゾッキ』という作品です。僕と、山田孝之君、斎藤工君が一緒に監督をします。それぞれに担当するパートがあるんですが、オムニバス作品ではなく一本の作品になります。ときには共同で演出もします。若手の俳優・監督たちとの共同作業ですが、僕には年齢差がどうのこうのという意識は全くなかったです。それぞれの個性が、映画づくりの中でどう融合していくのか、その面白さを楽しみました。これこそがこの作品の醍醐味だと思います。

ただ、新型コロナウイルスの影響で、公開日がなかなか決まらない。僕たちの作品だけでなく、いま映画・演劇など文化表現はとても厳しい環境にあります。けれども、ウイルスがもつ負のエネルギーだけには、飲み込まれてはならないと思いますね。こういうときこそ、自分は何を信じていくのかという、人の本質があらわになる時代だと思います。

好きな女の子を撮りたくて企画したけれど、その子にカメラを向けられなかった

子ども時代ですか?子どもの頃から映画は好きでしたね。僕の時代、日本映画では加山雄三さんが圧倒的なスター。洋画では『007シリーズ』。ショーン・コネリーがジェームズ・ボンドを演じていた時代です。それとよく観たのが、ハリウッドのユニバーサル・スタジオが制作したモンスター映画ですね。『フランケンシュタイン』とか『大アマゾンの半魚人』とか、とにかくモンスターの特殊メイクというか、その造形に圧倒されました。小中学生のころは映画や芝居の仕事に就こうなどとは考えていませんでした。ただ、映画館に行くのは特別な時間でした。

竹中直人

高校に入ると、8ミリ映画を撮るようになりました。当時はビデオカメラもない時代。ただ、8ミリフィルムで動画を撮影する家庭用のカメラがあったんです。本体もフィルムも高価なものでした。8ミリフィルムといっても撮影できる時間はたった3分。、僕は美術部だったんですが、美術部の連中とお金を出し合って8ミリカメラを買いました。

文化祭に出品するために制作したショートフィルム。僕が企画・監督・撮影・編集を兼ねて、鎌倉の由比ヶ浜までスケッチに行く様子を撮っただけのものです。当時、美術部に好きな女の子がいて、その子を8ミリカメラで撮りたいがためにみんなを巻き込んで企画したんです。でも結局、その女の子は一切映っていないんです。あまりに好きすぎて、どうしても彼女にはカメラが向けられなかったんです(笑)。

2浪して多摩美術大学のグラフィックデザイン科に入学しました。その頃も映画への憧れは続いていて、映像演出研究会というクラブに入って、やはり8ミリで映画を撮っていました。学生の自主映画コンテストみたいなものもありましたが、学園祭で上演するためだけに撮っていた。ただみんなで一つの作品を作るのが楽しいだけで「コンペに出そう!」とかそういう野心のある奴が誰もいないのが良かったんですね。はたから見れば壮大な自己満足かもしれないけれど、僕にとっては映画を観る以上に大切な時間でした。

当時の先輩たちの作品を見ると、“四畳半”的な、暗い恋愛ものが多かった。そういうものが流行っていた時代でした。でも僕はブルース・リーが大好きだったので、『燃えよタマゴン』という8ミリ映画を撮りました。ブルース・リーの『燃えよドラゴン』が当時大人気だったんです。多摩美なんで「タマゴン」(笑)。

その頃から、顔面模写やものまねは得意でしたね。多摩美時代に友達が応募して、『ぎんざNOW!』というテレビ番組のコーナーで、素人勝ち抜きコメディアン道場というものがあったんです。当時誰もやったことのないものまねということで、ブルース・リー、松田優作さん、丹波哲郎さんなどのものまねがうけて5週勝ち抜いてチャンピオンになったりしました(笑)。多摩美の卒業制作で作った映画も、僕が遠藤周作さんや芥川龍之介さん、松本清張さん、ブルース・リー、松田優作さんに変身する自分自身のCMを作りました。

僕がものまねする俳優や作家は僕の憧れの人でした。もともと僕は小さい頃からコンプレックスの塊で、自分に自信がなく、いろんなものにビクビクしていました。だからこそ自分ではない何ものかに変わるということへの憧れがあったと思います。俳優もまた、自分とは違う人を演じる仕事ですから、自然にそういう道を選ぶことになりました。

僕を世に送り出してくれた沢山の人のおかげで、今がある

大学卒業後は、就職はせず、劇団青年座の研究生を目指しました。そして研究生の試験に受かったのはいいけれど、劇団に授業料を払わなくちゃならない。当時、20万円ほどでしたか。そんな大金は持ってないですからね(笑)。

当時、若者たちの間で一世を風靡した『ビックリハウス』という雑誌があって、その編集部が渋谷にありました。そこが主催した企画で「エビゾリングショウ・3分間で人を笑わせたら賞金20万円」というコンテストがあったんです。ビックリハウス編集部の榎本了壱さん(現・大正大学表現学部長)や高橋章子さん(現・エッセイスト)に薦められて出たらなんと優勝しちゃったんです。それで、青年座の授業料をキャッシュで払うことができました。

竹中直人

やはり、自分のようなものが現在に至るまで、俳優や監督を続けていられるのは、人との出会いのおかげだと思います。

青年座には所属していましたが、舞台役者だけではなかなか食べていけない。このままではまずいと、学生時代に出演したテレビ番組のツテをたよって、自分で売り込み活動をしました。小道具とかバッグにつめこんでTV局を回りました。

劇団の頃は、TVのエキストラで現場にも行ったりしましたね。そこで自分を何とか売り込もうと小芝居をして、助監督に「お前どこの劇団だっ!」と怒鳴られたりしていました。その後、1983年にテレビ朝日の『ザ・テレビ演芸』に出演してグランドチャンピオンになり、それがプロとしてのデビューになります。俳優や文化人のモノマネだけでなく、「笑いながら怒る」人という芸もそこで披露しました。その番組に出演を勧めてくださったのが芸能プロダクションの人力舎の玉川善治社長です。玉川さんがいなかったら、今の自分はなかったです。

「この人気は一年も持たない」――俳優は不安と闘う職業

それからは自分でも驚くぐらい仕事が増えて、風呂付きの家に住めるようになりました。27歳の夏ですね。でも、芸能界にはなかなか馴染めなかったんです。「おはようございま〜す」なんて言ってスタジオに入るのも照れくさかった。いつまでも人気は続かない。1年も経ったら忘れられてしまうと、日々恐怖に怯えていました。エキストラの頃は冷たくあしらわれた助監督にも、「おお、やっぱりおまえは出てくると思ったよ!」なんて言われたりして、ますます不安になり、「一年で消えますよ…」とよく言ってましたね。

そういう不安が少し和らいで、ホッとするのは、映画の現場でしたね。初めての映画の現場は滝田洋二郎監督の作品です。3日間で全部撮るという低予算の映画でしたが、テレビのバラエティ番組とは違う、フィルムの匂いというか、現場の空気感がたまらなかった。子どもの頃から憧れていた映画の世界。そのフィルムの匂いが自分には合っていたんでしょうね。

竹中直人

テレビの仕事のかたわら、映画にも出演が多くなり、学生時代の友人の宮沢章夫(演出家)と、パフォーマンスユニットを作ったり、劇作家の岩松了氏と「竹中直人の会」という舞台を作りました。今は大ファンだった劇作家の倉持裕さんとお芝居を続けています。まずは久しぶりの監督作「ゾッキ」を仕上げることが大事ですが。

ただ、これで安心ということは今も全くないですね。つねに不安との闘いです。僕はサラリーマンの経験がないからわからないけれど、すべての職業の人が持っているものなんじゃないかと思います。俳優は水商売のようなものですから当然ですが、今はどんな仕事でもいつなくなるかわからないですからね。でも逆に、そういう不安がないと、何か新しいことにチャレンジしようなんて思わなくなってしまうのではないですかね。絶望の中からみえる光みたいなものだと思います。

僕はもう還暦を過ぎてしまったけれど、これからも今までと変わらず色んなことを恐れずにやっていけたらいいなと思っています。テレビや舞台・映画、そして映画監督、音楽活動、本もまた書けたらいいなと思っています。とにかくまだまだです。まだまだ足りないものだらけですね。これからもっともっと強烈に強く存在していきたいと思っています(笑)。なんたって「竹中直人にやりすぎはない!」ですからね。(談)

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竹中直人 俳優・映画監督

1956年横浜市生まれ。俳優や作家の顔面模写という独特の芸で注目され、俳優の道を歩む。1996年にはNHK大河ドラマ『秀吉』で主演の豊臣秀吉役を務め、高視聴率を記録した。1991年に映画『無能の人』で監督デビューを果たし、ベネチア国際映画祭国際批評家連盟賞、ブルーリボン賞主演男優賞を受賞。日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を『シコふんじゃった。』『EAST MEETS WEST』『Shall we ダンス?』の3作品で受賞するなど、受賞歴も多数。新たな監督作品『ゾッキ』の公開が待たれている。