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元全日本女子ソフトボール監督から学ぶ

何事にも責任感を持たせる。
それがチームづくりの原点
~監督は社長であり、用務員でなければならない~

元全日本女子ソフトボール監督
宇津木 妙子

女子ソフトボール日本代表を率い、初めてオリンピックのメダルを獲得した宇津木妙子氏。現在もソフトボールの世界的な普及に全力を注いでいる。インタビューでは、日本リーグでは初の女性監督を務めた日立高崎時代の話を中心に、チーム・マネジメントの要点をうかがった。

エリートじゃなかったから分かる。選手一人ひとりの個性の引きだし方

ソフトボールを始めたのは中学1年生の時でした。近所の友達や先輩がソフトボール部に入っていたのが入部のきっかけですが、その内、このスポーツの面白さや試合の勝ち負けの楽しさ、悔しさを知るようになり、高校でもソフトボールを続けました。

私立星野女子高は私が入学した時には県で4位ぐらいの実力でしたが、顧問の先生が熱心でスパルタ式の練習を重ね、卒業する頃にはインターハイや国体の常連校になるまで力をつけていました。高校3年生の時に私はキャッチャーでキャプテンでしたが、それでも決してエリート選手ではありませんでした。

実業団のユニチカ垂井にスカウトされた時も、狙いはエースピッチャーの選手で、私はその付録とまで言われましたから。けれども、そのように言われてめげる私ではなく、逆にそれを発奮材料にしました。毎日の厳しい練習になんとか耐えてこられたのも、この負けず嫌いの性格のおかげだったと思います。

31歳で日立高崎から監督のオファーがあった時は散々迷いました。当時のソフトボール日本リーグに女性監督は一人もいませんでした。関係者も男性ばかり。チームはリーグ内では弱小チーム。苦労は目に見えています。

ただ、だからこそやってみたいという気持ちもありました。そのころ父に言われた言葉は今でもよく覚えています。「監督は社長であり、用務員でなければならない」。リーダーには部下を育てる責任がある。選手も人の子、一人ひとりが違う。それぞれの違いを見極めながら、全員をチームの一員として活かしていく。もちろん、試合に勝っても負けても、すべてその責任は自分が背負わなくてはならないと。その厳しい言葉が私の覚悟を後押ししてくれました。

初めての女性監督。周囲の視線に負けたくなかった

監督は孤独な仕事です。それに、プレッシャーも凄い。体重も落ちましたし、眠れなくもなりました。でも、勝つことにより女性監督に対する周囲の冷たい視線を変えたかったですし、私を呼んでくれた当時の工場長の想いに応えたいとも思っていました。

「企業がスポーツチームを支える理由は、それが人の心を団結させる力があるからだ。経営が苦しい時も、みんなが団結してこの会社や工場を守るんだ。従業員をそういう気持ちにさせてくれるチームを作ってほしい」と、工場長に言われていました。これこそ企業スポーツの原点ですよね。この人のために頑張ろうと思いました。

だから練習の厳しさは半端じゃなかった。先日も日立高崎時代の教え子がやっている店で思い出話をしていたら、「監督は怖かった。ちょっとしたミスにも怒鳴って怒るし、試合に負けるとご飯を食べさせてくれなかったり、正座をさせられたり、何十kmも歩かされたこともあった」とかね、そんな話ばかり出てきました。

けれども、何も頭ごなしに怒ってばかりいたわけじゃありません。つねに選手とコミュニケーションを図りながら、ここは叱った方がいいのか、叱るべきでないのか、たえず考えていました。「監督の私としてはこの様なチームを作りたい。そのチームの中であなたにはこういう働きをしてほしい」と、チームのビジョンと役割を共有するための話はよくしました。選手一人ひとりに課題を与え、毎日レポートを提出するようにも指導しました。そのレポート作りを通して、選手たちにキャッチボールは何のためにやるのか、反復練習はどういう効果があるのかを、考えさせるようにしたつもりです。

仕事もスポーツも、自分のポジションへの責任感は同じ

練習の時の決め事一つをとっても、なぜそれが必要なのかを、粘り強く何度もくり返し話しながら、チームづくりをしていきました。監督が言うから仕方がないと思っていた部分もあるとは思いますが、たとえその時はわからなくても、何年か後には分かってくれると信じていました。

これって、企業のマネジャーが部下を育てる時の方法と、そう変わらないと思いますよ。厳しい練習や多くのルール、その一つひとつに意味があります。それは勝つためであり、人を育てるためなのです。

実業団の選手ですから、午前中は出勤し、通常業務を当たり前にこなさなければなりません。それも含めて選手生活なんです。出勤時はきちんとスーツを着ること、化粧は禁止、仕事は率先して行い、選手同士で固まっておしゃべりするのは厳禁、といったルールもありました。

これにはユニチカ時代の私の経験も生きています。当時は選手たちも、一般の女子社員と同じ寮生活をしていました。中学を出たばかりの、いわゆる紡績会社の女工さんたちです。そういう社員から「ソフトの選手たちは、私たちとは違う世界の人」と思われてしまってはなりません。企業チームが試合に出られるのは、会社の一般社員の皆さんが応援してくれるから。そのことへの感謝の気持ちを忘れてはダメなのです。

だからこそ、日頃の仕事ぶりが重要になる。自分の仕事に責任感を持つからこそ、ソフトボールでも自分のポジションに責任を持てるようになるのです。選手の職場の上司にもお願いしました。選手たちを職場ではスター扱いしないで、厳しく仕事を教えてほしいと。選手たちは一生ソフトボールやるわけじゃありません。いつか現役を終えて、社会人に戻った時、仕事ができませんでは言い訳になりませんから。(談)

後編では、宇津木流チームワークの作り方を中心に、選手の育成方法などについてうかがいます。

優秀な選手もミスをすれば叱る。指導者ははっきりモノを言うべき

実業団チームやオリンピック代表を鍛えるための練習は、大変に厳しいものでした。それこそ、毎日千本も二千本もノックしました。選手ももうヘトヘトで、倒れる寸前です。そんな時にも、ボールが来れば無意識のうちに手が伸びる。グダグダに疲れた時に、ボールを捕球したその感覚を覚えていれば、その選手は必ず上手くなります。その時にこそ技が身につく。これだけできるという自信がつきます。練習を通して選手の技量が向上するというのは、燃え尽きる瞬間なのです。

本当に疲れてもうダメだな、これ以上やったら故障してしまうなと思ったら、わざと絶対に取れないところにノックし、選手が倒れ込むのを見て、「何やってんだ。そこに立っとけ!」と一喝するわけです。実は立たせながら選手を休ませているわけですね。

それでもベンチで休ませないのは、立たされている選手を見て、まだレギュラーを取れていない選手が、「あんなに上手い選手まで怒られるのか。自分はまだまだ練習が足りないな」と発奮してもらいたいからです。

練習には緊張感が必要です。だから監督は選手の友達であってはならない。監督としての威厳を失ってはいけないと思うのです。

その選手が元々できるできないとか能力のあるなしとは関係なく、ミスをすれば叱る、勝利に貢献すれば誉める、そのメリハリをしっかり持って、はっきりモノが言える監督じゃなければいけないと思います。それが選手たちに対する愛情というものであり、ソフトボールというスポーツへの責任でもある。

企業における上司が持つべき資質、果たすべき役割という点でも、同じことが言えるのではないかと思います。愛情と責任感に裏付けられた厳しさ、ということでしょうか。

とはいえ、練習が終われば、監督と選手はまた別の接し方があります。

選手と一緒に寮生活や合宿をしていた時は、練習後のお風呂はよく選手と一緒に入りました。女性指導者が選手とお風呂に入ることはあまりないらしいですが、私はお風呂が大好きだから、湯船に浸かりながらいろいろな話をしました。ふざけ合いもする。笑いも出れば、歌も歌う。そういう素のコミュニケーションも大切です。一方で、ぬるぬると滑る石けんを使って、ボール握りの訓練などもしましたね。

試合では、ホームラン賞というのを設けて、ホームランを打った選手には私のポケットマネーで1万円ずつ賞金をあげたこともあります。こういう時に限ってホームランを打つ選手がいるんですね(笑)。ホームランが5本も出れば5万円ですから、懐が痛いことは痛いけれど、嬉しいものですよ。

花が美しいのは努力しているから、それを支える雑草があるから

日本が世界で勝ち、オリンピックで金メダルまで獲れるようになったのは、守備をしながら攻めるという戦術の確立と、やはり優れた選手が育ってきたからです。なかでも、上野由岐子選手の存在は大きい。その力量はこれまでの選手と比べても群を抜いています。

ただ、彼女がすばらしいのは、その実力だけでなく、今年はここまでやる、来年はこれもやると、つねに自分の中に目標設定があることです。未だにその進化は止まることがありません。最近はバッティングにも力を入れて練習しているようです。

2008年北京オリンピックでの、上野選手の2日間3試合413球の連投というのは、みなさんもまだ記憶にあると思います。ただ、ヒーローは彼女だけという見方をされてしまったことは、彼女にとってその後の重荷になったことは確かでしょう。確かにチームには花形選手が存在します。ポジション的にもピッチャーやショートは目立ちがちになる。ただ、花が美しいのはその周りに雑草があるから。だから、花形選手にはよく、あなたたちを目立たせてくれているほかの選手の存在に感謝しなくてはいけないよと話しています。また花が花であり続けるためには、人一倍努力しなくてはいけないのよ、とも言いますね。

死ぬ時は、グラウンドでバットを持ったまま

今は、日立高崎でシニア・アドバイザーを務めながら、NPO法人「ソフトボール・ドリーム」の仕事にも精を出しています。2012年のロンドン・オリンピックにソフトボールが採用されなかったのは残念ですが、今後のオリンピック種目への復活を目指した運動をするのも目的の一つ。またソフトボールを通した世界交流も大切なミッションだと考えています。

今年9月に台湾で開かれた世界選手権アジア大会にも、日本選手団の団長として参加しました。イランチームは大会初参加とは言え、日本との1戦目で初回に15点も取られました。本当はそこでコールドゲームですが、とにかく3回まではやろうと、ルールを教えながらの試合となりました。

大差で敗退しながらもイランの選手たちの目はキラキラしていましたね。最後のさよならパーティーではイランの監督が感極まって涙ながらに、大会や日本からの援助に感謝していました。こういう大会を通して色々な国の人と交流し、ソフトボールの魅力を世界に広げていくお手伝いも、私のこれからの役目の一つだと思っています。

そのためにも体力は必要ですね。若い時から続けていたランニングは今も毎朝欠かしません。もし走れなくなったら、その時が本当の引退でしょうね。変な話ですけど、私が死ぬ時には、バットを持ってグラウンドで死にたいなと思っているのです。カーンとすごい球をノックしたら、あっ監督倒れてた、みたいな(笑)。みんなには迷惑かけちゃうけれど、きっとその時の私は「ああ、いい人生だったな」と思いながら、その表情は微笑んでいると思いますよ。(談)

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元全日本女子ソフトボール監督
宇津木 妙子(うつぎ・たえこ)

1953年生まれ。高校卒業後リーグ1部のユニチカ垂井に所属。世界選手権へも出場し、日本を代表する選手として活躍。1985年に現役を引退し、指導者へ転身。アトランタ五輪でコーチを務めた後、女子ソフトボール日本代表監督に就任。シドニー五輪では銀メダル、アテネ五輪では銅メダルへ日本代表を導いた。2011年6月、NPO法人「ソフトボール・ドリーム」を設立し、理事長に就任。ルネサス高崎シニア・アドバイザーなども務める。

(監修:日経BPコンサルティング)