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フィギュアスケートコーチに学ぶ

成功したら、抱きしめて一緒に喜ぶ。大切なのはフィギュアスケートを楽しんでもらうこと

フィギュアスケートコーチ 山田 満知子

日本のフィギュアスケート界にコーチとして関わるようになってから、半世紀近く。その間、伊藤みどり、浅田真央など一流選手を育て、現在も宇野昌磨をリンクサイドで見守るなど、現役として奮闘している。フィギュアスケートと共に歩んだ人生を振り返りながら、山田流ともいわれるコーチングの秘訣を伺った。

伊藤みどりとの出会いが私のコーチの出発点

山田 満知子

最近は世界選手権でも日本の選手がメダルを獲得するようになり、男女ともにフィギュアスケートが大変な人気です。しかしひと時代前には、日本人は欧米人と体型が違うので、世界で活躍するのは難しいと言われていた時代もありました。

その難しい壁を破ったのが、渡部絵美さんであり、私が指導した伊藤みどりでした。なかでも伊藤みどりは、誰よりも高く跳び、誰よりもパワフルに舞い、そして誰よりもはじける笑顔で観客を魅了することができる、それまでにないタイプの選手で、「伊藤はたった一人の力で女子フィギュアスケートを21世紀へと導いた」という国際スケート連盟からの評価も頷けます。

今でこそ名古屋はフィギュアスケートのメッカのように言われますが、私がコーチになった頃は東京の選手たちには全く敵わない。私もまったく無名のコーチの一人にすぎませんでした。スポットライトが当たる東京の選手たちを見ながら、この子たちに勝ちたい、名古屋でトップ選手を育てたいとは思っていました。そんなときに出会ったのが、伊藤みどりです。

私自身、最初から一生の仕事としてコーチを選んだわけではなく、なんとなく連盟のお手伝いをするなかで、コーチを始めるようになりました。それまでは、フィギュアスケートが名古屋でもっと普及すればいいな、くらいの軽い気持ちだったんですが、伊藤みどりと出会ってからは、選手を強化し、その技量を世界レベルにまで引き上げることが私自身の目標になりました。つまり私自身が世界の名だたるコーチと張り合うようにならなければならない。いわば私にプロフェッショナルとしての自覚を促したのも、伊藤みどりとの出会いだったのです。

「もうやめたい」と泣き言をいう選手とどう向き合うか

山田 満知子

伊藤みどりはもともと天真爛漫な性格の子で、思春期の頃はスケートをやめたいと頻繁に口にしていました。私自身はそんなつもりはないのですが、型にはめるような指導を嫌っていたんだと思います。「じゃ、やめる?」と聞くと、「やっぱりやる」。「ほんと?」と聞くと「うん、やる」。そんな会話を幾度交わしたことか。中学3年で全日本選手権で初優勝。その後、国内では向かうところ敵なしの状態。1989年には世界選手権で女子では初めてのトリプルアクセルのコンビネーションジャンプに成功し、優勝しました。

もうその頃には、「やめる」とは決して言わなくなりました。若い選手の自覚を引き出すためには、こういってはなんですがやはり“駆け引き”のようなもの、そして本人自身の成功体験、さらには本人がしっかりと目標を見定めるまでの時間が欠かせないのだと思います。

伊藤みどりは、高校生のころにアメリカへのスケート留学のお誘いもあったのですが、それを断って私についてきてくれました。やはり小さいときから培われた、強い信頼関係が互いにあったからなのだろうと思います。

なぜ私のコーチング・スタイルは「山田ファミリー」と呼ばれるのか

山田 満知子

私自身は、7歳でスケートを始めましたが、当時はプロのコーチはいなくて、みな連盟から派遣されるアマチュア。しかも自分の親の年代ですから、明治か大正生まれの人ばかりなんです。難しいことを厳しく言われるばかりで、全然スケートが楽しくなかった。私の父がスケートが好きだったので、練習を止めるわけにはいかなかったんですが、もう少し楽しく指導していただければ、もっと上手くなったのにな、という思いはありました。

だから、私のコーチングの基本は、子供たちにスケートを楽しんでもらうというのが一番。厳しく叱りつけるような指導をした記憶はありません。一つテクニックを覚えると嬉しくなってまた練習したくなる。友だちと一緒に滑るのが楽しいからリンクに顔をだす。そういうので構わないんです。コーチと選手の関係も、上下関係というよりは家族的。だから私たちのチームはよく「山田ファミリー」と呼ばれます。国内外を見ても、こんなに楽しそうに練習しているチームは少ないんじゃないかと思いますよ。

選手の母親たちがリンクサイドに並んで、子供たちに声をかける風景も昔からのものです。そういうことを嫌がるコーチもいますが、私は親と共に協力しながら選手を育てることが大切だという考えです。子供の成長に親も感化されますし、何より私自身がよい勉強になります。若い頃はリンクサイドに来るお母さんたちはずっと私の年上。子育ての悩みなどを相談に乗ってもらいました。今のお母さんたちは、私の娘よりも年が下で、その子供たちといったら私の大学生の孫よりもずっと若い。

でもそういうお母さんたちと話すことで、私の視野も広がります。子供たちとの接し方も時代と共に変わりますから、その変化についていくこともできます。もしそのように人間関係を広げずに、「私はコーチよ」とふんぞり返っていたら、きっと私は視野の狭い人間になっていたことでしょう。お母さんと子供たちには、本当に感謝しています。

素直な心が才能を伸ばす──浅田真央選手の場合

私は浅田舞・真央の姉妹も指導していました。この姉妹には最初に出会ったときから私自身が魅了されました。フィギュアスケートという上品で気高いスポーツにぴったりの子たち。私にとっては初めて出会うタイプの選手たちでした。

それまで指導していた伊藤みどりは、ずば抜けたジャンプ力はもっていましたが、天才肌で気性が激しく、練習もやるときはやるけれど、やらないときは全然やらないというムラのある子でした。ところが浅田姉妹、とくに真央はとても素直な子で、私が「こんなふうに滑ってみてほしい」ということを、正確にカタチにして表現することができました。

それまで私はジャンプを教えることにかけては一流と呼ばれていましたが、決してジャンプだけが大切なのではなく、表現力のある美しいスケートを教えたいと常々願っていたのです。真央はその願いが通じる、まさに逸材でした。

私たちのクラブには、先輩選手が試合に使ったコスチュームやスケートシューズをお下がりのようにして後輩たちが使うという習慣があります。もともとは節約の精神から始めたもの。もちろん決して強制ではありません。ただ、伊藤みどりが残していったコスチュームを浅田真央に着せると、真央はとても喜びました。大先輩の衣裳を身につけることで、不思議な力が湧いてきたのかもしれません。

私たちの願いを叶えるように彼女は瞬く間に世界のトップスケーターに成長しました。ただ、2006年にはアメリカに練習の拠点を移します。真央ほどの実力があるのなら、若いうちにもっと世界を見た方がいいと思いましたし、名古屋の混雑したリンクでいつまでも練習させるのは可哀想だという思いもありました。かといって私が真央たちと一緒に海外に拠点を移すということもできません。私には名古屋でフィギュアスケートの底辺を拡大するというライフワークがあるからです。

逸材を発掘し、その成長を手助け、そしていつかは、辛い思いをこらえながら教え子を旅立たせる。コーチというのはそういう仕事でもあると思います。

跳べない選手も跳べるようになる──選手を勇気づける言葉と身振り

山田 満知子

絶対に負けられないという勝負のかかった場面で、選手をリンクに送り出すときにかける言葉。

「いつもどんな言葉をかけるのですか」とよく聞かれますが、ここぞという魔法の台詞があるわけではありません。その選手の状態を見て、その気持ちを考えながら、その都度、適切な言葉をかけるようにしています。

例えば、練習の段階では完璧な仕上がりだったとしても、選手はものすごく緊張しているわけです。あるいはコーチの声も耳に入らないほど集中力を高めているかもしれません。そんなとき変な言葉をかけたら、それが頭の片隅に残り、それに気を取られて、演技を失敗してしまうことだってあるのです。その集中度を妨げないためにあえて言葉を飲み込んで、黙ってリンクに押し出してやることもあります。

技量は万全なのに、大きな大会になるとミスが出てしまう選手もいます。浅田真央もそういうタイプ。だから彼女の場合は、いかに気持ちをリラックスさせるか、そのための言葉を選んでいました。心身の緊張がほぐれたときの真央の演技ほど、美しく、可愛らしいものはありません。

言葉掛けが大切なのは、試合のときだけでなく、練習でも同じです。なかなか高いジャンプを跳べない選手に私たちは「はい、もう一回!」と声を掛けるわけですが、冷たく突き放したような言い方でそれを言うのか、それともコーチ自らが身振り手振りで、「ほら、こんなふうに、もう一回!」というのでは全然効果が違ってきます。言葉で言えば「膝を屈伸して足首を使って、キュッと上がるのよ」ということになりますが、それを自分からジェスチャーで見せるようにすれば、子供たちも体で理解してくれるようになります。

難易度の高いジャンプに初めて成功した子には駆けよっていき、抱きしめて、一緒に喜んであげます。こうした肌の触れあいもスポーツではとても重要なことだと思います。

分業体制で選手をサポート──新しいコーチング体制について

山田 満知子

半世紀近い年月、私はフィギュアスケートの現場に立ちつづけ、いろいろなコーチの指導法をみてきました。昔からあって変えないほうがいいものもありますが、時代と共に変化していかなければならないものもあります。

例えば、かつてはテクニック、選曲、振り付けなど一人のコーチがすべてやっていました。しかし、今はそれぞれに専任のコーチがいて分業体制で教えることが普通になっています。

企業における若手社員に対するコーチングも、一人の上司がすべて面倒をみるというのではなく、組織分担を確立しながらやっていくのが今の時代には必要ではないかと思います。スポーツもビジネスも時代にいかに対応していくかが重要だからです。

いま私には何人かのアシスタントコーチがついてくれていますが、そういうシステムの採用も私は早い方だったと思います。自分が楽をしたいからアシスタントを雇っているわけではありません。私もすっかりおばあちゃんですから、いつまでも現役ではいられません。アシスタントを育て、徐々に指導者の世代交代を図っていくために、あえてアシスタント制を採用しているのです。

最近は、海外遠征にもめったに帯同しなくなりました。身体がきつくなったというのが表向きの理由ですが、実はコーチの世代交代を真剣に考えての選択なのです。

2018年には平昌冬季オリンピックが開かれます。その前哨戦に当たる国際大会の日程もめじろ押しです。私が樋口美穂子コーチと共に指導している宇野昌磨(中京大学)の活躍には期待していますが、ロシアや中国の選手など優秀なライバルも虎視眈々とメダルを狙っています。

フィギュアスケートをリンクサイドで間近にみると、氷上を滑走するそのスピードに驚くはずです。テレビではカメラが選手の動きについていきますから実感しにくいんですね。そのスピードも年々速くなっています。演技には緩急がありますが、昔はスローなパートで選手は少し体を休めることができました。ところが、最近は一瞬も休む暇がない。ルールも変わり、評点の要素が複雑になりましたしね。

4回転ジャンプなど最初はとても人間技ではないと思ったものですが、今はトップ選手でできない人はいない。誰かが成功すると、不思議なことにみんなできるようになるんです。どんどん選手のレベルが上がり、競技も面白くなる。フィギュアスケートは進化し続けるスポーツの代表といえるかもしれません。

ぜひそういう観点からフィギュアスケートをご覧になって、楽しみながら応援していただければと思います。(談)

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山田満知子

1943年名古屋市生まれ。7歳でスケートを始める。フィギュアスケート選手として、国体少年の部、インターハイで優勝。金城学院大学卒業後、愛知県スケート連盟を手伝いながらコーチの仕事も行う。コーチとして、伊藤みどり、小岩井久美子、恩田美栄、中野友加里、大島淳、浅田舞、浅田真央、村上佳菜子、宇野昌磨など数多くの一流選手を育て上げる。1989年文科省スポーツ功労賞受賞、2005年文科省国際大会最優秀者賞受賞。現在も名古屋スポーツセンターをホームリンクとするグランプリ東海フィギュアスケーティングクラブのコーチとして、若い選手の指導にあたる。