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元プロ野球選手に学ぶ

当たり前にプロを続けるために必要なこと──山本昌氏が振り返る、32年の野球人生

元プロ野球選手 山本 昌

現役時代は投手王国・中日ドラゴンズのリーダーとしてチームをけん引してきた山本昌氏。プロ野球最年長勝利記録を更新し、「中年の星」としてファンに愛され、今年からは野球解説者としての新たなキャリアを開始した。なぜ山本氏は32年も現役生活を続けることができたのか。そこにはどんな出会いと努力があったのか。“レジェンド・マサ”の野球人生を振り返る。

「普通」であるための努力は、若いときの5倍

山本 昌

昨シーズンで引退しましたが、メディアからのインタビューがあったり、テレビのニュース番組の野球解説者の仕事が始まったりして、今は生涯で最も忙しいオフシーズンを過ごしています。

解説者としてキャンプ取材に行くと、現役時代には見ることができなかった他チームの練習風景を見るのですが、これが新鮮なんですよ。同じキャッチボールでもチームによってやり方が違う。野球というものの奥深さをあらためて感じています。

投手人生32年。確かによくこんなに長くやれたなとは思いますが、決して大変だったという感じはしません。「これが普通なんだ」と今では思います。

「50歳近くになると練習がキツくないですか」とよく聞かれましたが、練習して体をつくるのはプロとしては当たり前のこと。練習はもともと嫌いではないから辛いことはない。ただ、体づくり一つとっても、若いときの5倍は時間がかかります。だから、歳を取れば取るほど、準備を早めにスタートさせなくてはなりません。準備さえしっかりしていれば、マウンドでも普通に正常心でいられる。つまり、「普通」であるための努力が余計に欠かせなくなるということですね。

準備に時間をかけなければなりませんから、オフシーズンの日常生活もその分何か他のことを削らなければなりません。私は若い頃からけっこう多趣味な人間で、ラジコンカーやクワガタ飼育などは有名でした(笑)。でも、10年前からはそれらの趣味をすっかり封印しました。これもプロとして「普通」であるための努力、いや禁欲と言えるかもしれません。

ラジコンを通じて気づかされた、フォーム改造への挑戦

山本 昌

私が長くピッチャーを続けられた理由は他にもあります。まず大きな故障がなかったことですね。また、小山裕史先生(フィットネスコーチ)をはじめ、優れた指導者と出会うことができたのも大きい。自分では自分の投球フォームに劣等感を感じていたのですが、20年前に小山先生に初めて出会ったとき「きれいなフォームだ」と言われたのは驚きでした。小山先生には、正しく体を使えば、正しい投げ方になり、それが結果的に投手寿命を伸ばすことにつながる、ということを教えていただきました。

基本フォームをつくることは大切ですが、決して毎年同じフォームで投げていたわけではありません。意識的に細かいところで変化させています。

そうするようになったのは、一種の気づきがありましてね。ラジコンカーが趣味だとは先ほど申し上げましたが、ラジコンカーのプレーヤーたちは、趣味とはいえ真摯に取り組んでいる。その日の路面状態や温度・湿度を記録し、最速のスピードを出せるようにこまめに車体を改造し、チューニングする。その様子を見ていて気づいたんです。アマチュアでさえこれだけやるのだから、高い年俸をいただいているプロがフォーム改造にチャレンジするのは当然じゃないか、と。

投球フォームの中でも球を放つ瞬間の、骨格の部分には自信がありましたから、それ以外を変えて試すようになりました。フォームを変えると球がどう変化するのか、そういうデータをしっかり収集しながら、より高みを目指すようになりました。これも努力といえば努力ですが、トライ&エラーで自分のフォームを微調整しながら100%を目指すことは私にとっては楽しいことでもありました。たえず理想のフォームやボールを追いかけてきたからこそ、長く続けられたのだと思います。

「ストライクを投げろ」──米国野球留学が転機に

高校からドラフトでプロ球団には入りましたが、キャンプ初日の最初のトレーニングでは度肝を抜かれました。こちらは午前中だけでヘトヘトになっているのに、コーチが言うのは「よしアップ終わり!」。「えっ、これからがホントの練習なの」とびっくりしました。キャッチボールでは隣で小松辰雄選手(現・解説者)が投げていたんですが、その球筋を見て、「これはすごい。自分は何年経ってもこんなボールは投げられないな」と絶望しました。

実際、プロになってからなかなか芽が出なかった。1987年に開幕一軍入りをしましたが、初登板で肘を痛め、それからは登板機会がなかった。1988年の2月には、星野仙一監督からロサンゼルス・ドジャースのキャンプへの「留学」を命じられます。しかし、この米国野球留学が自分の大きな転機になりました。

米国に渡ったものの当初はやる気が出ずに、ふてくされていました。しかし、アイク生原氏(ドジャース球団のオーナー補佐兼国際担当)に出会って変わった。早稲田大学で野球をやられていた方ですが、おっしゃることは「初球はストライクを投げろ。上から投げろ。低めに投げろ」というような基本の基本ばかり。「そんなことはわかっていますよ」と応じるんですが、その基本が出来ていなかったんですね。アイクさんの野球に対する情熱も人一番熱いものがありました。スクリューボールを覚えたのも、アイクさんの指導があったからです。

米国は日本と練習の方法一つとっても違う。米国ではある程度の練習メニューはこなすけれど、後は選手の自主性に任され、実践で鍛えるという考え方です。私はドジャースのマイナーリーグに所属してトレーニングしていましたが、地区の試合の数が日本と比べものにならないほど多いんです。年間150回、シーズン中はほぼ毎日試合をするようなペース。覚えたてのスクリューボールなど、様々なピッチングを試すことができました。日本では2軍に落ちると、登板機会は年間30回位しかありませんから、経験をなかなか積めないんです。それと、フロリダは昼が暑いので、試合はほとんどがナイター。ナイトゲームは光線の具合でサインは見にくいし、捕手の身体が小さく見える。そこに投げ込むわけですから、コントロールの精度も向上します。こうしてナイターに慣れたことも日本に帰ってきてからの自信につながりました。米国で様々な武器を身につけ、88年のシーズン途中で日本に呼び戻されました。それからが私の本格的なプロ野球選手人生のスタートだったと思います。

7人の監督の下で投げ続けた野球人生

山本 昌

中日ドラゴンズ一筋に32年間のプロ野球人生でした。中日で私は7人の監督から指導を受けました。監督というのは大変な仕事だと、つくづく思います。選手・スタッフの全員の信頼を得ることができれば理想ですが、現実には難しい。勝負の世界なので切らざるを得ない選手もいるでしょう。チームの中には必ず不満もある。みんなにいい顔をして選手を甘やかしていては、結果的にみんなの信頼を得ることはできない。そういう厳しい立場です。

大リーグに関する、とある本の中に「監督はチームの6割の人心を掌握できればいい」という言葉がありましたが、その通りだと思います。

歴代の監督の中では、まず星野仙一監督には一から育ててもらいました。高木守道監督にはエースとして、大人として扱ってもらった。山田久志監督が就任されたときは、私もすでに36歳。もう一度鍛え直してもらった。あの時の指導がなかったら50歳までやれなかったと思います。落合博満監督とは40歳からの付き合いですが、「一つでもアウトが多く取れる選手を俺は使う」と言われていた。起用の基準が年齢じゃないんです。だからこそ監督在任の8年間、しっかり使ってもらえたんだと思います。谷繁元信監督は年下ですが、長年バッテリーを組んできた仲。監督として私を使うのはやりづらかったと思いますが、よく気を遣ってもらいました。

中日以外の監督のことはよく知らないのですが、一度は野村克也監督の下で投げてみたかったですね。なぜなら野村さんのチームと対戦するときには、必ず私が「イヤだなあ」と思う打順で選手を起用してくるんです。つまりそれだけ相手投手のことをよく研究しているということ。そういう監督と同じチームだったら、また別のことを教えてもらえたかもしれないですね。

長嶋茂雄監督が巨人のベンチにいた頃は、長嶋さんが見ている前で投げることに緊張感と共に喜びがありましたね。私が18年目のころ、春の北谷キャンプでお会いました。私のピッチングを見て、ネット裏で大きな○を作ってくれたんですよね。「マサ、今年で何年目だ」と聞かれるので「18年目です」と答えたら、「あと2年だなあ」と明るく言われたことを覚えています。プロ野球選手の多くは20年で一区切り、それを機に引退する選手が多かったからでしょうね。私の場合はそれからさらに14年も投げたわけですが……。でもね、長嶋さんが言うと妙に説得力があるんですよね(笑)。

チームの年長者として若手に教えること

山本 昌

15年前から球団の中で最年長の選手になりました。若い世代の選手には、その中から自然にリーダーが生まれるもの。私が出しゃばる必要もないので、そのリーダーを立てるようにしたことがよかったと思います。

そもそも30代のころは若手にあまり技術的なことは教えなかったですね。彼らは私にとっては直接のライバルですから。私もプロだから、うまくなる秘訣なんてライバルにはそう簡単には教えられませんよ(笑)。

ただ、40代に入ると、もっと歳の離れた、例えば高卒ルーキーには、私の方から積極的に話しかけ、聞かれれば色々教えるようにしました。私の方から声をかけないと、彼らも畏れ多くて近づけないですからね(笑)。

ピッチャーの技術については、いつ何を聞かれても答えられるように、一人ひとりの選手をよく見るよう心がけました。選手には迷いがつきもので、色々とアドバイスを求めてきます。「フォームで悩んでいます」「こういうボールを投げたいんですが、なかなかできません」。そのときに的確なアドバイスをすることが、最年長選手の役割だと思いました。

若手選手に教えるとき、何より大切なのは言葉です。できるだけ「擬音」は使わないように、曖昧な言葉ではなく、明確な理論的な裏付けのある言葉を発するようにしました。フォーム改造にかけては私も経験豊富ですからね。実際のところは「こうすればいい」というより、「これは絶対してはいけない」という言い方が多かったと思います。

オファーがあるなら、指導者の道に進んでいきたい

山本 昌

解説者としては、野球を知らない人にいかにわかりやすく野球の楽しみを伝えるかが大切だと思っています。機会があれば、子どもたちがもっと身近に野球と触れあえるような活動にも関わりたい。子どもがもっと野球を好きになってくれるように、なんとか盛り上げていきたいですね。

私も50歳ですから、もしオファーがあるのであれば、指導者の道にも進んでいきたいと思っています。中日に限らない。乞われるのであれば、どの球団でもやりますよ。そのためにも準備が必要。今はもっと勉強して、「投げる」ことを理論的にも究めたいと思っています。

プロ野球界にはまだまだ若い逸材がいます。まずは大谷翔平選手(北海道日本ハム)や藤浪晋太郎選手(阪神)ですね。昨年は2人とも21歳でクライマックスシリーズの開幕投手を務めました。彼らの活躍を見て、私もようやく辞めてよかったなと安心しました。後は、先の2人と共に高校三羽ガラスと言われた濱田達郎選手(中日)の活躍にも期待しています。

40歳以上の投手としては、三浦大輔選手(横浜DeNA)を応援したいですね。私が辞めたので、彼が今年から現役最年長選手ですからね。私と同じように50の声を聞くまでずっと投げ続けてほしいと思います。(談)

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山本 昌(やまもと・まさ)

1965年東京都生まれ。1983年のドラフトで中日ドラゴンズに5位指名を受け入団。1988年、ロサンゼルス・ドジャースに留学、広島東洋カープ戦で初勝利。1993、94年に2年連続で最多勝利投手となり、90年代の中日ドラゴンズ投手陣を支える。2006年、通算2000奪三振と、プロ野球最年長紀録となる41歳1カ月でノーヒットノーランを達成。2014年、プロ野球最年長勝利投手記録を更新。2015年に引退。

(監修:日経BPコンサルティング)