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元プロボクサーに学ぶ

遠い先を見ない。目前の敵を倒すことだけを考えて
~“神の左”山中慎介はいかにして孤独な闘いを勝ち抜いてきたのか~

元プロボクサー 山中 慎介

「神の左」と呼ばれる強烈な左ストレートを持ち、2018年3月に引退するまで、日本歴代2位の世界王座12連続防衛を果たした山中慎介氏。なぜそこまで勝ち続けることができたのか。コーチとの関係はどうだったのか。山中氏にとって、ボクシングの魅力とは何なのか。そして、日本ボクシング界のこれからへの期待などについて伺った。

もっとフェアに闘いたかった、プロ最終戦。しかし気持ちは吹っ切れた

山中 慎介

2018年3月1日、WBC世界バンタム級王者への返り咲きを目指した試合が、私の現役最後のリングになりました。ルイス・ネリ選手との再戦です。前日に計量でネリーに大幅な体重超過があって、彼は試合直前に王座をはく奪されました。その前にもドーピング疑惑があった選手です。王座空位のまま、それでも試合は行われることになりました。

理不尽ではありました。もっとフェアな条件で闘いたかった。私は減量に苦しんだのに、相手は5ポンドもオーバー。その憤りを私は控室で爆発させました。結果的に気持ちの切り換えがなかなかできなかったのかもしれない。第2ラウンドで私のTKO負けでした。

それで私も気持ちが吹っ切れました。あの試合がもし中止になったとしても、モチベーションの糸が切れて、そのまま引退となっていたかもしれません。ともあれ、3月26日に正式に引退を表明しました。

引退後の生活は一変しましたが、体の感覚や体型を維持したいこともあり、リングにこそ立たないものの、毎日のロードワークは続けています。世界戦のテレビ中継の時にゲストで呼んでいただいたりと、ボクシングの試合は見ています。現役時代には強い選手の試合を見ると、「いずれ、彼とぶつかるかもしれない」とライバル意識がふつふつと湧いてきたものですが、今は冷静に客観的に見れるようになりました。

「神の左」を迷いなく、打ち抜けるようになるまで

山中 慎介

子供の頃に辰吉丈一郎さん(元WBC世界バンタム級王者)や畑山隆則さん(元WBA世界スーパーフェザー級、ライト級王者)の試合を見て、あのベルトが格好いいと憧れました。それがボクシングを始めるきっかけです。ひと時代前は喧嘩の強い奴がやるスポーツというイメージがボクシングにはありましたが、私は純粋にスポーツとして取り組みました。自分の運動神経、すばしっこさでは誰にも負けないという強みが活かされるだろうし、強くなればプロにもなれる。それで高校はボクシングの名門・私立南京都高校(現・京都廣学館高校)を選びました。(卒業生としては村田諒大など)

高校、大学とボクシングを続けましたが、大学での成績が不本意だったこともあって、このまま終われないと思い、プロ入りを決意します。選んだのは帝拳ジム。南京都高校のボクシング部を選んだ時も、帝拳ジムを選んだ時も、同じようにピシッとしていて活気がある雰囲気を感じました。ここなら自分は強くなれると。

ただ、本当に自分のボクシングができるようになったのは、ずっと後のことです。2006年にプロデビューしますが、負け試合はないけれど、KO数は少なかった。練習では強いパンチが出せるのに、リング上ではそれが出ないんです。どこかで、甘えた部分があったのでしょう。

それが変わったのは、日本チャンピオンに挑戦する試合の少し前、2010年になってからです。連続KOで勝てるようになり、自信がついた。それまでの蓄積がようやく花開いたということなんでしょうけれど、左ストレートを迷いなく打ち抜けるようになりました。

私の左ストレートは、地元の友達が「神の左」と名づけてくれました。もともと左は器用に使えるんですが、ボクシングでは右を武器にしたいと思っていた。ただ、高校の武元先生に「左を武器にしたほうがバランスがいい」と言われて、転向しました。それからは、右でジャブを繰り出し、相手との距離を測りながら、つねに左を当てることを考えるようにしました。私は多彩なパンチが打てるわけではない。「引き出しの少ない選手」という評価は当たっています。だからこそ左を磨いて、突出した武器に仕上げた。結果的にそれが相手を恐れさせ、世界チャンピオンになってからの12回の防衛につながったのだと思います。

自分のベストパフォーマンスを思い描いて

山中 慎介

ボクシングは孤独なスポーツです。リングに上がるのはいつだって怖い。その緊張感はいつまでたっても治らない。しかし、それを克服しなければ試合には勝てない。そのためには、自分自身の良い点や悪い点を冷静に分析することが重要になります。プロデビューの頃は、いい試合ができるかどうか、不安でしかなかったけれど、経験を積むにつれて、試合ごとにその反省を活かし、悪い点を直して臨むようになりました。

世界チャンピオンになったのは29歳で、防衛を重ねていたのは30代です。決して年齢的に若いほうではない。一試合でも負けたら引退しようと常に覚悟していました。そのためには目の前の試合の一戦一戦を戦うしかない。遠い先を見すぎると、私はダメなタイプなんです。

長い間、現役で居続けるためには、自分が最も優れたパフォーマンスを発揮できた試合をイメージすることも大切です。私の場合は、WBC防衛第2戦のトマス・ロハス戦でしょうね。左ストレートが見事に決まりロハス選手は頭から落ちて、失神しました。あのストレートの感触はまだ覚えています。その後も、1ラウンドで相手を倒した試合もありましたが、勝ち方という意味ではロハス戦に優るものはない。勝ってもおごらず、常に自分のベストの試合に近づくように努力したおかげで、リングに立ち続けることができたんだと思います。

ボクシングは私の仕事です。まずは自分のため、家族ができてからは家族のため、そしてファンのために、私は仕事をしてきました。なかでもファンや後援会のみなさんの応援は、防衛を続ける上でとても力になりました。ボクシングってリングサイドのチケットはめちゃくちゃ高価ですからね。そういうお金を払ってまで私の試合を見に来てくれる人たちを喜ばせたい。それがあって、頑張れたんじゃないかと、今になってあらためて思います。

「ミット打ち」は選手とトレーナーのコミュニケーション

帝拳ジムで私にずっと付いてくれたのは、大和心トレーナー(元日本バンタム級王者、元OPBF東太平洋スーパーバンタム級王者)です。彼とは「兄と弟」的な関係。私が新人ボクサーのころ、彼もトレーナーとしては新人でした。意見をぶつけ合い、冗談も言い合う。お互いが成長しあう関係だったんです。大和さんは選手の体調、練習メニュー、対戦相手の状態などを細かくノートにとって、そのデータを管理してくれるマメな方でした。そういうマメさは私にはないものです。

山中 慎介

2017年8月、世界戦で初めてTKO負けを喫した時、大和さんがタオルをリングに投げ入れて試合が終わったことで、タオルは早すぎたんじゃないかとか世間ではいろいろ批判もありました。ただ、私たちの中ではあのタオルのタイミングについては、お互い十分納得している。その後の練習で大和さんがタオルを持ち出すと、「それ、投げないでよ」と冗談のネタにしていたぐらいですから。

ボクシングの練習に「ミット打ち」というのがあります。ふつうはトレーナーがミットを持って、選手のパンチを受けます。サンドバッグと同様に大切な練習です。ミット打ち、あれは言葉ではなく、トレーナーと選手が体感で交わすコミュニケーションだと思うんです。ミットにパンチを入れながら、選手は試合に向けた微調整をする。トレーナーもパンチの当たり具合で、選手の状態を把握できるんです。そういう言葉以上のコミュニケーションが、トレーナーと選手の間には不可欠です。

何十人という部員の特徴を一瞬に見抜いた名コーチ

優れたコーチやトレーナーの条件は、まず選手個々の特徴を知り、それにあった指導を行うことができるというのが一番だと思います。高校時代にモンゴルから同国のナショナルチームのコーチを招聘して指導してもらったことがあります。彼が凄いのは選手の個々の特徴を一瞬で把握したことですね。何十人といるボクシング部全員のですよ。それに応じて、一人ひとり練習スタイルも変えていました。日本語はたどたどしかったけれど、若い選手への愛情というのはよく伝わりましたね。

コーチや監督と選手の関係というのは、企業でいえば管理職の人と社員の関係でしょうか。長年、私をサポートしていただいたスポンサー企業に育毛シャンプーなどエイジングケア製品のメーカーがあるんですが、そこの社長さんは社員が百人以上いるのに、顔だけでなく、どんな仕事をしているかおおよそのことを覚えていて、一人ひとりに気を配り、声をかけているんです。それって凄いことじゃないですか。さすが社員数が数千人となると無理かもしれませんが、それでも、まずは自分の管理下にいる人のことを知るというのが、指導者の第一歩だと思うんです。

練習や試合を続ける中で、コーチの指導方針が変わることはあります。私も初のTKO負けを喫した後は、トレーナーの助言でボクシングスタイルを少し変えました。負けたのだからそれは当然ですよね。だから、方針が変わることはある。ただ、コーチはそれを選手にきちんと説明できないといけません。これって、おそらく会社の中でも同じことが言えるんじゃないかと思いますね。

ボクシングで得た仲間のためにもこれからの人生を有意義に

最近、ボクシングの人気は上昇傾向にあるんじゃないでしょうか。村田諒太選手や、井上尚弥選手など期待の若手が台頭していますからね。私が世界チャンピオンになった2011年の頃は、今ほどではなかった。他にも日本人の世界チャンピオンがいるのに、長年のファンでもない限り、全部名前を言える人は少なかったように思います。

村田選手の知名度は高いですね。ボクシングを知らなくて、ふだん試合を見ないような人でも名前と顔は知っている。オリンピックの金メダリストでプロでも世界王者になった選手は日本にいなかったですからね。昔のボクサーとちょっと違って、ときおり哲学的なことも言いますしね(笑)。プロボクシングの広告塔としてこれからも頑張って欲しいと思います。

小さい頃からボクシングを始める少年が増えてきたのも最近の傾向かもしれません。キッズの大会が盛んに開かれています。みんな、小さい時から「相手を打つ前に、自分が打たれない」というボクシングの基礎をしっかり身につけています。私は高校から始めたけれど、今はレベルが高くて、高校からではインターハイで勝つのも難しい。いま活躍している若手選手は、ほとんどが高校以前からボクシングに親しんできた子たちですからね。総じて、ボクシングに対する真面目さというんでしょうか、スポーツとしてしっかり取り組む姿勢は、私の小さい時とは比べものにならないぐらいです。

ボクシングという競技のレベルは、日本も世界も年々向上している。ただ、底辺が広がっていることから考えると、これからの日本のボクシング界の未来は明るいと思います。

私自身のこれからですが、トレーナー、解説者、ジム経営などいくつかの道はあると思うんですが、まだ具体的なことは決めていません。子供は彼自身が望めばボクシング選手になってもいいとは思っています。小さい頃から私に抱かれてリングに上がり、引退直後は私の試合をビデオで振り返っていたような子ですから。

山中 慎介

あまり遠い先のことを見ないようにする、と前に言いましたが、それは、そのことばかりに頭が行って、毎日の苦しい練習をおろそかにしてしまう人もいるからです。私自身がそういうタイプなので、自戒を込めてそう言うのです。もちろん、あまり口には出さなかったけれど、私にも高い目標がありました。日本、そして世界のチャンピオンになること。プロ入りしても、日本チャンピオンになる前はずっとアルバイト生活でしたが、そんな生活に耐えることができたのも、絶対、王者になるんだという目標があったからです。

世界王者になった瞬間はなかなか実感がわかなかったんですが、次は防衛をしなくてはならないという時に、あらためてチャンピオンベルトの重さを実感しました。ただ、タイトルを守るというより、私自身がベルトをつけている山中慎介に挑戦するのだ、というチャレンジャーの意識のほうが強かったと思います。ここで負けたら自分のキャリアが終わる、だから終わらせない――。そういう不退転の決意がありました。そのために今何をすべきかを、練習をしながら、食事をしながら、常に考えていました。そのことが、チャンピオンとしての自分を成長させたんじゃないかな。やはり、目標を持つことで、人は育つんだと思います。

ボクシングを通して知り合った、他競技の選手、応援してくれるファンや仲間は自分にとっての人生の財産です。それらの人の厚意に報いるためにも、自分らしい新しい人生を始めようと思います。(談)

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山中 慎介

1982年滋賀県生まれ。南京都高校(現・京都廣学館高校)、専修大学とボクシングを続け、2006年プロデビュー。2010年第65代日本バンタム級、2011年第29代WBC世界バンタム級の王座を獲得。12年4月、初防衛。その後、日本男子歴代2位の世界王座12連続防衛を果たし、18年に引退した。プロ戦績は31戦27勝(19KO)2敗2分。