公共交通機関における決済システムの動向
~次世代のキャッシュレス決済を考える~

ポストコロナ時代の「シン・デジタル化戦略」 [第7回]
2022年11月

執筆者:NPO法人 地域情報化推進機構 副理事長
ITエバンジェリスト/公共システムアドバイザー
野村 靖仁(のむら やすひと)氏

先日、2023年度から企業が賃金をキャッシュレス決済口座に振り込む「デジタル給与払い」が可能になるとニュース等の媒体で伝えられ話題になりました。コロナ禍を経て急速に進展した「キャッシュレス決済」ですが、中でも急増しているのがバーコードやQRコードを活用した「コード決済」です。

一般社団法人キャッシュレス推進協議会の利用動向調査によると、2021年の「コード決済」の取扱高は、前年度比7割増の約7兆3,487億円となり、これまで主流の「Suica」等の、ICチップを使用したプリペイド型電子マネーの約6兆円を超え、日常生活における小額決済の手段として定着しています。

我が国の政府は2016年から2025年まで、キャッシュレスの利用比率を2割から4割程度に倍増させる目標を掲げています。最大手「PayPay」の利用者数は、2022年8月18日時点で5,000万人を突破し、NTTドコモの「d払い」も3月末時点で4,300万人に到達するなど、2つのサービスだけを見ても、国内の約4割以上がキャッシュレス決済を日常的に利用していることになります。

注目される「交通系ICカード」の動向

そのような状況の中、いま注目されているのは、2021年11月でサービス開始から20年を経過し、累計発行枚数8,000万枚を超える「Suica(スイカ)」などを中心とした、公共交通機関で利用する運賃決済システム「交通系ICカード」の動向です。

「全国どこでも、JR東日本の「Suica」が使えたら便利なのに!」という意見もありますが、これは首都圏エリア側の論理のように思われます。JR東日本を中心とした首都圏側には「Suica」の経済圏が広がるメリットもありますが、それ以外の地域には独自の特性や事情があります。

「Suica」以外の地域から見れば、最低でも数億円レベルといわれている導入経費と、その後も継続して発生する高額なシステム運用コストは、その地域の交通事業者や自治体にとって運用経費の増大に繋がり、やがてはそれが利用者の負担増を招くと思われます。

「Suica」の要求仕様では、公共交通機関の混雑時に対応するため、ICカードとリーダーライターの距離が85mm以内で、1分間に60人が改札を通過する処理性能があり、改札の処理が200ミリ秒以内に終了することを求めています。

また、この仕様に対応するためには「フル規格」と呼ばれる自動改札機の導入に加えて、駅情報を含んだICカードの共通仕様を定める「サイバネ規格」への参画が必須で、システム連携の他にライセンス費用が発生するため多額の経費が必要になります。

しかし冷静に考えてみると、この首都圏近郊の通勤通学時における混雑状況を想定したオーバースペックともいえる要求仕様を、人口規模が異なる地方都市周辺の交通機関に適応させること自体、無理があるのではと疑問を感じてしまいます。

現に、欧米を中心とする海外の鉄道事業者等が要求するICカード仕様では、処理時間は500ミリ秒以内、改札機からカードまでの距離は20mm以内という、比較的緩やかな要件定義の範囲内で、なんら支障なく公共交通での運用がなされています。

海外で普及が進む「オープンループ」

そのような状況の中、国内で利用される交通系ICカードの主流ともいえる「Suica」、「ICOCA(イコカ)」等のフェリカ系の方式に対して、欧米諸国を中心に「オープンループ(Open Loop)」と呼ばれる、新たな運賃決済の仕組みが急速に普及しています。

「オープンループ」とは、「Visa」など国際ブランドの非接触決済「EMVコンタクトレス」に対応したクレジットカードを、交通系ICカードの代わりに使用するもので、利用者は従来通り改札機の読み取り部分にクレジットカードをタッチすれば、交通運賃の料金請求が行われる仕組みです。

「オープンループ」を公共交通機関で初めて導入したのは、2014年の「TfL(Transport for London)」ロンドン交通局ですが、ロンドンでは2003年から「Oyster(オイスター)」と呼ばれる交通系ICカードを使用していました。しかし国内外からの観光客への対応も含め、システムの維持・管理にかかる運用コストはロンドン交通局にとって大きな負担になっていました。

そこで、クレジットカードのタッチ決済機能を改札に応用する「オープンループ」の仕組みを導入したところ、従来、売上高の約14%を占めていた運用コストが、翌2015年には9%弱にまで低下し、2019年には「オイスター」と「オープンループ」の利用比率が逆転することになります。

「オープンループ」方式のメリットは、利用者は交通系ICカードを別途入手する必要がなく、自らが所有するクレジットカードで交通機関の利用が可能になり、チャージを行う手間もかからないことから、いまでは、米国、ロシア、イタリア、シンガポールをはじめ、世界全体では580の地域で利用されています。

国内における「オープンループ」の動向

日本国内では、2020年7月の東京駅と茨城県ひたちなか方面を結ぶ高速バスを運行する「茨城交通」が導入を開始し、同年末には京都府の北西部を走る「京都丹後鉄道」がワンマン運航の車両に導入。2021年4月には南海電鉄が国内で初めて「オープンループ」に対応した改札機を設置。2022年には福岡市地下鉄と熊本市交通局が運営する路面電車(熊本市電)の一部路線や車両で実証実験を開始しています。

クレジットカードのタッチ決済を公共交通機関で利用可能にする、決済プラットフォームを展開している「stera transit(ステラトランジット)」によると、現在の国内での状況は鉄道・高速バス等を中心にフェリーなど20都府県で30のプロジェクトに採用され、2023年3月までに、タッチ決済が可能な様々な国際ブランドのクレジットカードでの決済に対応する予定になっています。

また、新たな機能として、クレジットカードの後払いの特徴を活かすことで、運賃をカードの請求時に割引することが可能になり、ヘビーユーザーには一定額以上は請求しない「運賃上限モデル」の導入や、交通機関を利用した後に特定の地域で買い物や観光をすると、割引や特典が受けられるなどの買い物・観光と連携した、「特典付与」などの導入を進めるとしています。

「オープンループ」のメリットと導入への課題

「オープンループ」方式のメリットは、通常のクレジットカード用の機材にプラスして、クレジットカードのタッチ決済システムを交通機関で利用するためのプラットフォーム「stera transit」の利用料を支払うだけでよいため、運用経費の大幅な削減が可能になります。

そして、インバウンド(訪日観光客)や国内の他の地域から訪れる旅行者にとっては、新たなICカード等を購入することなく、日常使用しているクレジットカードで公共交通を利用できることが重要なポイントです。

導入に向けた課題としては、カードの読み取り装置の設置方法です。「南海電鉄」「福岡市地下鉄」「熊本市電」の場合、現状では「Suica」などに対応するため、改札機や運賃箱には「FeliCa(フェリカ)」規格のリーダーライターが設置されています。

これに対して「オープンループ」方式では、ICチップを内蔵したクレジットカードのタッチ決済システムの国際規格「EMVコンタクトレス」に準拠しているため、交通機関での読み取り装置もその仕様に合わせる必要があります。

また、「Suica」などを受け入れる改札機では処理時間を高速化するため、通常のICカード読み取り装置の設定を変更するなど独自の拡張が行われていますが、国際規格「EMVコンタクトレス」ではこのような例外は認められないため、現状では1つの改札や運賃箱に、2つの異なる規格の読み取り装置が並んで設置されています。

新たな選択肢としての「QRコード対応チケット」

このように国内でも多くの交通事業者が「オープンループ」方式の運用を模索している段階ですが、JR東日本では現行システムの「Suica」を継続しつつ、スマートフォンで複数の交通機関を乗り継げる「MaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)」の推進と、磁気切符を「QRコード」に置き換えるチケットの展開を検討しているようです。

これは従来の磁気切符の代替となるもので、沖縄の「ゆいレール」などで既に導入されています。従来の磁気切符と比較して改札機が簡素化でき、使用済み切符の処理負担も少ないためコストの削減が図れます。プリンターでの印字と、スマートフォンの画面上への表示が可能なため、駅の券売機を経由せずにネット上での切符購入に繋げることも可能になります。

JR東日本では、2021年に切符の投入口をなくした、QRコードリーダー内蔵の改札機での実証実験を実施し、「QRコード対応チケット」導入の検討を進める一方で、低コストな改札機を実現するため既存システムのクラウド化を推進するとしています。「Suica」の利用可能エリアを拡大するとともに、「QRコード対応チケット」を併用することで、JR東日本を中心とした独自のエコシステム構築を目指しているのかもしれません。

モビリティサービスにおける決済システムの方向性

このような関東の動向に対して、インバウンドの目玉となる大阪・関西万博の開催を2025年に控えた関西エリアでは、南海電鉄をはじめ、私鉄各社が「オープンループ」導入の検討を始めています。一方、JR西日本は2023年に「モバイルICOCA」の提供開始を表明しており、私鉄大国ともいわれる関西の私鉄各社の動きが注目されています。

近い将来、「オープンループ」方式を導入する鉄道事業者が増えれば、既存の「交通系ICカード」は淘汰されるのでしょうか。これについては、決済プラットフォームを展開している「stera transit」側も、完全に置き換わるような意図は持たず、既存の仕組みでは満たせないニーズを補完することが主眼で、結果として適材適所で両者が共存する形を模索しているようです。

インバウンド等の観光客など他地域からの来訪者が多いエリアで有効な手段である「オープンループ」、「QRコード対応チケット」は存在価値を高めながら、当面は既存改札機などの改修コスト等を勘案しながら、ハイブリッドな形で複数の決済手段を受け入れる形で併存していくのではないでしょうか。

様々な状況から考えると、事前にICカード等を入手する必要のない「オープンループ」や「QRコード対応チケット」の仕組みは、インバウンド観光客の誘致を目指す地方自治体や企業にとって、使い勝手の良いシステムであり、多くの可能性を秘めていると思われます。

現状の公共交通機関のキャッシュレス決済を巡る動向は「交通系ICカード」、「クレジットカード」、「QRコード対応チケット」を中心に、これらのサービスを提供する事業者が、互いの事業モデルを併走・連携させ、合従連衡を繰り返しながら推移していく、大きな変革期の序章なのかもしれません。

ポストコロナ時代の「シン・デジタル化戦略」

執筆者:NPO法人 地域情報化推進機構 副理事長
ITエバンジェリスト/公共システムアドバイザー
野村 靖仁(のむら やすひと)氏

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