つながる図書館のさき
 ~図書館ツアーとクロストークから

図書館つれづれ [第4回]
2014年9月

執筆者:ライブラリーアドバイザー
    高野 一枝(たかの かずえ)氏

はじめに

今回は、前回約束した、6月に見学した九州図書館見学ツアーと、7月2日に開催された「菅谷明子さん×猪谷千香さんクロストーク」についてお話しします。

九州図書館見学ツアーから(伊万里市民図書館と武雄市図書館)

色々な人が視察に行き、色々な角度で発表もされていますが、ツアーに参加した皆さんの一致した意見は、「来て見てよかった!」でした。

この二つの図書館は、ことごとく比較されるべく、ことごとく対比状態にある図書館でした。

まず、一番大きな違いは図書館の設立にあります。
「図書館はそもそも誰のためにあるのか?」伊万里市民図書館は、設計段階から、「伊万里をつくり市民とともにそだつ市民の図書館」を旗しるしに、建築施工主、図書館、市民のトライアングルで、多くのプロセスの中で育てられていきました。ボランティア団体が「ミシンをかける部屋が欲しい。アイロンをかけるためにはコンセントがいっぱい必要」と訴えれば、それが実現した図書館なのです。

人口5万7千人の伊万里市に、図書館をサポートする市民活動団体「図書館フレンズ伊万里」には今は400名近い方が登録され、図書館をバックアップしています。図書館の周りの草刈から読み聞かせや布絵制作など、それらが独立して自発的におこなわれている「ボトムアップ」方式の図書館です。

20数年前の起工式の日、敷地をみんなで歩いた後に食べたぜんざい会は、今もその日を「芽生えの日」とし300食のぜんざいが振舞われています。伺った日、テラスでお年寄りと若者が囲碁をしていて、それをまた数人のお年寄りと若者が見守っていました。図書館は、日常的に住民が利用する滞在型の図書館でした。

一方の武雄市図書館は、「トップダウン」方式の図書館です。樋渡啓祐市長は高校まで武雄市で過ごされ、伊万里市と人口もほぼ同じ武雄市に市長として戻ってきました。立派な図書館があるのに夕方の五時には閉館する図書館に疑問をもち、市長として奮闘し、武雄市図書館は昨年4月にTSUTAYAを運営するCCC(カルチャー・コンビニエンス・クラブ)を指定管理者として開館しました。今も全国からの視察が絶えず、図書館は観光名所としての経済効果に十分一役買っています。樋渡市長は、その経緯を「沸騰!図書館」という本まで出版し、図書館でも売られていました。

伊万里市民図書館は、毎週月曜日、祝日などの休館日があり、開館時間も金曜日以外は朝10時~午後6時までの従来型の図書館です。それに比べ、武雄市図書館は年中無休、午前9時~午後9時まで開館しています。武雄市に住む私の友達は、図書館を、「ちょっとおしゃれして家族で半日過ごせる場所」と話していました。今まで図書館を利用したことはなかったそうですが、夕食を終えて、くつろぎながらコーヒー片手に本をよむために図書館を利用するとのことでした。参加者の中にも、「ここでゆっくりくつろぎたい」と言わしめたほど、図書館を利用していなかった層を発掘しているのも又事実のようです。

図書館は、単に本を借りる場所から、公共性や経済効果など地域のニーズをうまく取り入れて、いま変わろうとしています。この2つの図書館に、その到達方法の違いを見た気がしました。
ただ、一同がとても残念がったのは武雄市郷土資料館(蘭学館)の扱いでした。蘭学館には、江戸後期の佐賀藩近代化の礎になった鍋島藩武雄領の蘭学資料が常設されていましたが、来場者が少ないことを考慮して、その場所はTSUTAYAのCD、ビデオコーナーへと代わったのでした。資料の活用を望む声が参加者の中にもありました。

郷土の成り立ちを仕舞い込んだ武雄市と対照的に、伊万里市民図書館の郷土研究室の前に無造作に張られていたのは、昭和5年伊万里町図書館の標語でした。

  • 一. 真の文化は、図書館を背景とす
  • 一. 覚めざる者は、図書館を解せず
  • 一. 一日読まざれば、一日遅る
  • 一. 無智は、読まざる報いなり
  • 一. 一日一頁あなどり難し

私は、この二つの図書館の違いを、この標語に見出したのですが、皆さんはどう感じましたか?

元伊万里市民図書館館長だった犬塚氏は、「市民は風、図書館は帆、行政は船」と例えました。
どの図書館も、その生い立ちや歴史があり、抱える問題も違い、首長の采配で対処も変わります。その中で図書館がどうやって利用され、利用者とどうやって繋がっていくのか。その答えは、伊万里にも武雄にもなく、実際に暮らす“その町”にしかないのではと感じたツアーでした。

第2回LRGフォーラム・菅谷明子×猪谷千香クロストーク
「社会インフラとしての図書館-日本から、アメリカから」

菅谷明子さんが2003年に「未来をつくる図書館」を刊行してから約10年。菅谷さんに触発された猪谷千香さんが2014年に「つながる図書館」を刊行しました。その中には、伊万里や武雄の図書館のほかに、鳥取県立図書館、武蔵野プレイス、島根県海士町など、ここ数年の新しい図書館の取り組みが書かれています。お二人は共にジャーナリスト。主催者ARG(アカデミック・リソース・ガイド株式会社)が求めたのは、図書館の内部に閉じない“社会インフラとしての図書館”という視点でのクロストークでした。

菅谷さんからは、「社会インフラとしての図書館のありかた」としてアメリカでの報告があり、猪谷さんからは、情報環境の複雑化が加速する中、「知のセーフティネット」としての図書館の役割が唱えられました。詳細は、ARGが発行する雑誌「LRG(ライブラリー・リソース・ガイド)」の第8号に掲載されるとのことで、私の感想を幾つか紹介します。

まず、“公共(public)”の意味に、アメリカと日本では違いがあるということです。ニューヨーク公共図書館は、国会図書館レベルにも引けをとらない図書館ですが、州や市が直接運営する公共図書館ではなく、アメリカでも珍しいNPO(非営利民間団体)が運営する公共(public)です。設立は19世紀半ばまで遡ります。ニューヨークを文化都市にするためには図書館の充実が不可欠と、誰もが自由に学べる場として公共図書館が誕生したのです。失業者の就職案内はもちろんのこと、図書館は夢をかなえる場所で、この図書館を利用して多くの著名作家や成功者が輩出されています。アメリカでは「パブリック(公共)とはみんなのため」のもので、日本の「公共=自治体」のイメージとは、かなり違いがあります。

特に面白かったのは、「図書館リテラシー」という言葉です。

日本では読書好きな子どもと言えば、朝のテレビ小説「花子とアン」のように、創造の翼を広げて本を読む子どもを想像します。菅谷さんの娘さんもしかり。ところが、通っているボストンの小学校の先生から、「彼女は読書のしかたを知らない」と言われ、懸念に感じました。日本の読書は「どのように読むか」が抜けていて、「フェイスブックでライクを押す」ような共感するだけの読書は読書としては未熟で、読書とは、「本を読む前には知らなかった感情を知る、違う世界が開ける」ことだと言われたそうです。

アメリカでは本を手にする時、「これはフィクションかノンフィクションか?」から始まり、読むときのスタンスから違います。事実と評価の違いを学ぶ教育を、小学校1年生から、「本の読み方」を通して実践しているとのことでした。日本でも読書感想文は書きますが、先生に提出するレベルでおわります。ところがボストンでは、その内容について生徒同士でお互いに発表し、ブックディスカッションやピアレビューを行うことで、一人では気づけなかった事に気づく“客観力”を身につけていくのだそうです。日本の図書館は「本=小説」の感が強く、9分類の棚が多いのも、この辺の意識の違いが大きく影響しているのかなと感じました。

世の中に飛び交っている情報にはバイアスがかかっていて、それを見極めるにはプロのジャーナリストでさえ難しいそうです。図書館の存在意義は、「いかに賢い市民を育てるか」にあり、「何を読むのか」ではなく「どう読むか」を、図書館が「図書館リテラシー教育」として捉えてはとの提案がありました。そのために自らの所属するコミュニティにおいて、人のせいにせず「当事者意識」を持ち、場合によっては道を阻む「規則」でさえ建設的に壊し、「前に踏み出す勇気」を持ってほしいと、最後はエールで終わりました。

日本とアメリカの文化の違いは、教育の違いでもあるのだと、改めて納得した話でした。

トピックス

  • Library of the Year 2014は、8機関が一次選考を通過しました 新しいウィンドウで開きます
    「Library of the Year」は、これからの図書館のあり方を示唆するような先進的な活動を行っている機関に対して、NPO法人知的資源イニシアティブ(IRI)が、2006年より図書館総合展フォーラムで毎年授与する賞です。覇者は11月の総合展で決まります。

図書館つれづれ

執筆者:ライブラリーコーディネーター
高野 一枝(たかの かずえ)氏

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