3.11傷跡のその後
(南相馬、海辺の図書館、福島サウンドスケープ)

図書館つれづれ [第38回]
2017年7月

執筆者:ライブラリーコーディネーター
    高野 一枝(たかの かずえ)氏

はじめに

東日本大震災のあとも、大きな地震が続いています。3.11に私がこだわるのは、私も当日松島で震災に遭遇したことと、津波や原発という復興を厳しくしている要因があるからだと思います。3.11から6年経った南相馬と仙台市荒浜に伺ってきました。

南相馬市立図書館(注1)

知人の車でナビに従い、常磐富岡インターで降りたところ、突然「待った!」がかかりました。まだ一般道を通れない区域があったのです。私たちはそこで原発の現実をいきなり突きつけられました。一瞬緊張したものの、その先も高速は通っているというので、再度高速に乗り、南相馬へ向かいました。人のいない景色の中でも、桜はきれいに咲いていて、自然の営みに胸を打たれました。

南相馬市は、2006年に、旧小高町、旧鹿島町、旧原町市が合併して誕生しました。合併前の旧原町市では、2002年から新図書館建設のために、市民ボランティアの方々が図書館友の会「としょかんのTOMOはらまち」を立ち上げて、佐賀県伊万里市民図書館友の会「図書館フレンズいまり」などの友の会の話を聴いたり、幾つもの図書館を訪問し、自分たちの目指す図書館の姿を模索していました。そんな状況下での市町村合併でした。

合併して南相馬市となり、図書館友の会は、「としょかんのTOMOみなみそうま」と改称し、市と協働の活動から7年を経て、2009年12月に南相馬市立中央図書館(以下、中央図書館)が開館しました。ちなみに開館までに、図書館学者の塩見昇氏など著名人を招いた講演会は計15回、茨城県笠間市立図書館をはじめ研修見学に伺った図書館は学校含めて計6館、議長や市長にも署名陳情をお願いするなどの多彩な活動を行ってきました。

結成当時30名だった会員は、今は200名を超す大所帯に成長しました。中央図書館を入るとすぐに、左側にカウンター、右側に堂々と図書館友の会のデスクがあります。こんな対等な並びは見たことがなかったので、ちょっとびっくりしたけれど、後日事情を聴き、納得しました。まさに、図書館と友の会は、共同体だったのです。

中央館開館からわずか2年後の2011年に、3.11が起きました。南相馬市の地形は、合併した3つの地区(小高区/原町区/鹿島区)を国道6号線が団子3兄弟の串のように南北に連なっています。そして皮肉にも原発からの距離によって、同じ町でありながら、生活に大きな差をきたしました。

避難区域の変遷図を見ると、とても複雑なのですが、概ね原発から20km圏内にある小高区は、2012年3月まで「警戒区域」と指定され、通行もできない状態でした。一方、20~30km圏内にあった原町区は、「緊急時避難準備区域」に指定され、普通に生活はできる(宿泊もできる)が、緊急時には避難することを前提とする区域になりました。中央図書館は、この地域にありました。鹿島区は、津波の被害はあったものの原発の影響はほぼありません。

この差は市民だけでなく、自治体職員にも大きな影響を及ぼしました。普通の生活ができている職員がいる一方で、小高区に勤務していた職員は、市民の避難誘導に追われ、仮設住宅がなくなるまでその仕事に従事することになりました。津波や原発に対する意識のずれは、少なからず亀裂も生じ、離職する職員もあったといいます。合併してまだ基盤のできてない自治体です。「公僕」の一言では表せない現実を感じました。

中央図書館は震災後一時臨時休館となり、2011年8月に再開しました。再開当時、図書館職員の大部分は、市役所で災害対応業務に追われていました。退職者の影響もあり、必要最低限以下の職員数の中、友の会の力を借りながらの開館でした。通常業務に戻ったのは2011年12月頃だったといいます。私たちを案内してくれた高橋将人氏が人事異動で図書館に戻ったのは2012年4月。それから徐々に職員の欠員補充を新採用で行ってきたそうです。

図書館は開館したものの、避難場所で暮らす方々に本を届ける手立てがありません。2012年10月から、シャンティ国際ボランティア会が、市内7か所の仮設住宅に移動図書館を巡回させる支援を行ってくれました。(岩手を中心にしたシャンティの活動は、鎌倉幸子氏著「走れ!移動図書館」に詳しく書かれています)。

2016年7月に避難区域がほぼ解除され、20km圏内の小高区では、6年ぶりに生活ができるようになりました。ただし、住民が本格的に戻り始めたのは、学校が再開した2017年4月からでした。私たちは、「相馬野馬追」で有名な小高城の桜をみて、小高生涯学習センターへも伺いました。避難が解除されてすぐに開館したものの、市民は誰も住んでないので、誰一人来館のない毎日を、職員の方がどんな思いで過ごしていたかと思うと、胸が詰まりました。津波の傷痕も見てきました。小高区の村上海岸では、道路は無残にも押し曲げられ、家屋があった場所には主のいない庭に春の花が咲いていました。その先はすぐ海で、もうこの場所に住むことはできません。

現在、移住者のない一部の山地で20km圏内の高線量制限が残っているものの、基本的には市内全域が2016年7月の区域解除をもって生活可能となっています。とはいえ、中央図書館の入り口や市内各所に、放射能測定器が今でも設置されています。

中央図書館のことも少し紹介します。中央図書館は、2017年4月に開通再開したばかりの常磐線原ノ町駅のすぐ近くにあります。図書館の棚には、主題キーワードに触れたディスプレイ空間が時々出現します。たまに、段差の棚も飛び込んできます。車の運転と同じで、同じ並びで並んでいるより、ちょっとした目の刺激になるんだそうです。

小部屋のようなコーナーが幾つかあり、それぞれのテーマに沿っての展示と、座って読めるように椅子が配置されていました。もちろん震災関係の資料は充実しています。高額な航空写真も揃えていて、「必要な資料は保存するのが図書館の役目」と語ってくださいました。企画展示は、基本2か月の展示ですが、人の出入りも見ながら、場所を変えたり、展示期間を短くしたり、場合によっては常設展示に切り替えます。若い職員の皆さんの柔軟性を感じました。絵画や掛け軸も貸出します。この様子を知人は、「本が棚で喜んでいる」と評していました。

仙台市荒浜 海辺の図書館(注2)

仙台市若林区荒浜の深沼海岸は、かつて海水浴場として賑わっていました。しかし、2011年3月11日を境に、地区の形相が一変しました。あの日、360人が屋上に避難して奇跡的に助かった荒浜小学校まで、今は1時間に1本の間隔でバスが運行されています。他の建物が全て消滅したのに小学校だけが残ったのは、耐震工事を済ませた直後で、海岸に対して建物が垂直に建てられていたため波の抵抗が最小限ですんだという奇跡があったからだといわれています。松林もほとんど姿を消したこの地区に、かつて800世帯が営み、貞山運河ではシジミ採りもできたそうです。

震災後、荒浜の家の状況を見に行った庄子隆弘氏は、当然ながら何も見つけることができませんでした。津波が全てをさらっていったのです。家屋の無くなった跡地で目にしたものは皮肉にも、普段家人以外が目にすることのない風呂のタイルや井戸でした。ちなみに、この辺りはたいていの家に井戸があり、半農半漁の生活に重宝していたそうです。

自転車での帰り道、荒浜小学校の前で、ふっと目を落とすと、見覚えのある文字のビデオテープがありました。泥まみれになっていたそのビデオテープは、庄子氏自身のものでした。彼は、その時に何かを感じ、自分の家の跡地に小さな小屋を建てました。それが「海辺の図書館」です。「この建物にこだわっているわけではなくて、この荒浜全体の自然と人の融合を示したかった」と、話してくれました。この海辺に来て、風に吹かれながら、本を読んだり、友達と語ったり。この荒浜そのものが、彼の図書館のイメージでしょうか。

荒浜は現在住居を建てることは禁止され、ほとんどの土地を市が買い上げています。そんな中、一部の漁師や元住民が、今も荒浜で活動を続けています。貴田喜一氏もその一人、自宅跡に小さな小屋「里海荒浜ロッジ」を建てました。

「荒浜再生を願う会」を立ち上げて、住民らが月に1,2度定期的に集まって、お茶を楽しんだり、海岸や集落跡のゴミ拾いをしたり、荒浜のことを考える活動拠点にしています。でも、心無い人の放火によって、ロッジは一度全焼しました。冬で、ストーブの灯油をまいた痕跡があったのです。「親しい方を亡くした方や、震災によって困窮している方にとってみれば、ロッジの活動が苦く映ったのかもしれない」と、そんな方々の気持ちも心に留めておく必要があると感じた事件でした。

その後ロッジを立て直し、ピザを焼く窯も作り直しました。庄子氏と貴田氏は、親子ほどの歳の差はあるものの、「海辺の図書館」と「荒浜再生を願う会」の連携した活動も続けています。

伺った日は、味噌づくりのイベントがありました。荒浜地域の農家では、当りまえに、自家製味噌を作って生活していました。80歳を超える方のお話では、以前は、お正月のお祝いも、農業も漁業も全てが旧暦を目安におこなわれていたそうです。お話を伺いながら、「荒浜再生を願う会」の「再生」は、ハード面ではなく、受け継がれてきた文化の継承を意味しているのだと感じました。

そんな時、「松林が燃やされたみたい」との情報が入り、一瞬緊張が走りました。火事には皆さんナーバスになっているのです。会員の方と行ってみると、不法に持ち込んだ電化製品を燃やした飛び火から、ハイマツの一部が焼けていました。戻る道すがら、家屋の無くなった浜に咲く、ハマニガナ、ハマボウフウ、ハマナスなどの植物の名前を教えていただきました。「もしかしたら、浜の本当の住民は、この自然の今の景色かもしれない」と、ふっと、そんな思いが私の脳裏をかすめました。

福島サウンドスケープ(注3)

今回の訪問で知り合った福島大学准教授の永幡幸司氏は、震災以降の福島の音を、福島サウンドスケープとして記録しています。震災で鳥の声が聞けなくなったのでは?川の水に変化があったのでは?と色々なことが言われているけど、決定的に変わったことは、町中から子供の声が消えたことだと話してくれました。以下、永幡氏から後日いただいたメールの抜粋です。



原発事故後の福島のサウンドスケープの変化について語る際に、私がよく使っている言葉は、「放射能による沈黙」です。環境汚染というと、多くの方が、レーチェル・カーソンの『沈黙の春』を思い浮かべるのではないかと思います。この本は、化学物質で汚染された町では、春になっても鳥たちが鳴かない、という寓話で始まります。

しかし、放射能(放射性物質)で汚染された福島で実際に起こったことは、鳥や虫たちは、原発事故前と変わらず、いつも通りの季節にいつも通りの鳴き声を聞かせてくれていたのに対し、被曝を怖れた人間の方が、屋内に閉じこもり、沈黙してしまいました。原発事故では、カーソンの『沈黙の春』とは逆のことが起こったのです。このことを「放射能による沈黙」と名付け、ことあるごとに、お話ししています。「公園から子供たちの声が消えた」というのも、「放射能による沈黙」の1形態です。

もう一つ印象的なことは、原発事故後しばらくして、福島市内全域で行われるようになった除染の音は、原発事故を象徴する音と言えるものだと思いますが、まちなか等でこの作業が行われている時、この音(というよりは除染作業)に対して注意を払う人は少なく、皆、何事もなかったかのように、その周りを通り過ぎて行っていたということです。市内全域で順番にやっているので、あまりにも日常的な光景になってしまい、わざわざ、関心を向けるような対象ではなくなってしまったのだと思います。

同様のこととして挙げられるのが、テレビやラジオでお昼のニュースの前などに、県内各地のその日の放射線量が放送されていますが、これも、あまりにも日常のこととなりすぎて、この放送に特段の注意を向けているものは、ほとんどいないでしょう。



結論は出ないけど、あの震災を忘れてはいけないと、改めて思えた旅でした。ちなみに庄子氏は、図書館体操の考案者です。YouTubeで動画が公開されています。

トピックス

  • 日本図書館協会のステップアップ研修で知り合った認定司書の砂生絵里奈氏が編著した本「認定司書のたまてばこ」が郵研社から出版されました。知人の名前もちらほら。是非読んでみてください。文中に私の名前もあるとかないとか(笑)

図書館つれづれ

執筆者:ライブラリーコーディネーター
高野 一枝(たかの かずえ)氏

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