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人生の最後に残すべきものとは
―――後藤新平の名言より

「金を残して死ぬのは下だ。
 事業を残して死ぬのは中だ。
 人を残して死ぬのが上だ。―――後藤新平」

自分がこの世を去った後のことを、ぼんやりとでも考えたことがある方は多いのではないでしょうか。自分の人生のゴール、仕事のゴール…「せめて子供には、少しでもお金を残してあげたい」、「経営している会社はどうすればいいだろう」など、それぞれの立場によって考えることは少しずつ違いそうです。

後藤新平という人は、明治から昭和初期に活躍した医師であり、政治家。「大風呂敷」という異名でも呼ばれたそうです。どんな人物だったのでしょうか。

現在の岩手県奥州市に生まれた新平は、21歳のときに医術開業免状を取得すると、公立病院に勤めるなどし、医師として歩み始めましたが、27歳のころ(明治16年)、病院や衛生に関わる省庁である内務省衛生局の照査係副長に任命され、その後政治家への転身を遂げることになります。

大きな功績を残したのは、明治31年ごろから新平が尽力した、台湾の近代化です。新平は「生物学の原則」にのっとり、「日本の行政を持ち込まず、旧来の行政に基づいて統治する」という方針で近代化を進めました。台湾の悪習であったアヘンを激減させ、道路・鉄道・上下水道の整備を実現したことから、新平は今でも「台湾近代化の父」といわれています。

新平が常々言っていたのは、「一に人 二に人 三に人」という言葉です。この世を作っていくのは人であるとの考えから優秀な人材を作り生かしていくことに尽力しており、この人間本意主義に基づいた教員の教習所も創設しています。

台湾に続いて満州の近代化も実現し、新平が政治家として内務大臣や外相など歴任したころ、関東大震災が発生し、復興院総裁を任されることになりました。東京を欧米の都市に匹敵する都市として設計することを盛り込み、予算30億円の壮大な東京の新たな都市計画を打ち出します。これは「大風呂敷だ」と揶揄され、予算は結果的に10億円まで減額されましたが、延焼遮断帯として現在の東京都心の大動脈となっている大通りを整備、また火災で焼け落ちることのない鉄橋や大小様々な公園を実現しました。新平の目には、単なる復興だけではなく大都市としての東京のあり方が見えていたのかもしれません。

晩年に残したといわれる冒頭の名言には、彼らしいスケールの大きさを感じることができます。大風呂敷といわれようとも、金銭を蓄えることより事業を発展させること、さらには優秀な人材を育成することの方が、難しいけれど尊いことであるということを忘れてはいけないということです。優秀な人材を残すことで後世での発展にも寄与した彼の考え方は、心に響くものがありますね。