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【歴史編】「加藤清正」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 熱き男・加藤清正と熊本城

築城名人と言われる有力武将が何人かいる。かつて、この欄でもご紹介した藤堂高虎は、その代表格だが、このほかにも、黒田官兵衛や、山本勘助と並んで名前が挙がるのが、今回の主人公・加藤清正である。清正の城造りの特徴は、何といってもあの反り返った石垣にある。「武者返し」と呼ばれる、上になるにつれ、反り返ってくるように設計された石垣である。城内に入ってきて、石垣を登って天守に闖入しようと試みる敵の雑兵たちは、みな、目的を達することなく、あえなく落下する仕組みになっている。(因みに藤堂高虎の城の石垣は直線で、高い。「清正の反り石垣」に対して、「藤堂の高石垣」と言われた。)

「加藤清正」元NHKアナウンサー 松平定知

城の設計を「縄張り」というが、築城名人と言われる武将はみな、その技術が優れていた。清正の城の場合も、独自の工夫による多くの仕掛けが施されている。例えば、天守や本丸、二の丸といった建物の規模や形状はもちろん、掘割や曲輪の数や位置、各種の門の設置などはその基本事項だが、清正の熊本城の場合、籠城戦に備えて、城内に100を超える井戸を掘ったり、兵糧攻めに備えて、建物の土壁には干瓢を塗りこめたり、畳床には「ずいき」を用いたりもした。中でも有名なのが「昭君之間」と呼ばれる部屋である「昭君」は平仮名で書くと「しょうくん」。

だから「昭君の間」は「しょうくんのま」だが、昔は濁点をつけないのが通例だったから、「しょうくん」は「しょうぐん」とも読める。つまり「将軍の間」である。豊臣恩顧の武将の筆頭格の清正は、将来、万々が一、秀吉の遺児・秀頼に火急の事態が迫ってきた場合は、秀頼をここに匿う心算でいた、と言われる。その部屋までの正式な通路の他に、いわゆる「隠れ道」も用意した。しかし、清正の死が「秀頼の」より4年も前のことだったこともあり、この部屋は「そのように」使われることはなかった。(清正の死に至る経緯は後で詳述する)。

昨年、2016年の4月14日と16日、大地震が熊本・大分両県を襲った。この地震での熊本・大分両県の死者は、半年たった時点で110人(震度7に2度見舞われた熊本県益城町では23人が亡くなった)、被害を受けた家屋は18万472棟に上ったが、この地震で、熊本城も壊滅的な打撃を受けたことは、皆さんご存じの通りである。熊本城の入口の一つである馬具櫓の石垣は崩落しや、重要文化財の北18間櫓と石垣は、半年たった時点でまだ手付かずである。

私たちがその姿を見て思わずうつむいてしまったのは、瓦が落ちて下地が露わになった天守閣だったし、飯田丸5階櫓の倒壊を守っている左端の隅石を見た時だった。その隅石は顔を歪めて悲鳴を上げながら必死に支えているように、私には思えた。地震の数か月後、まだ不完全なものだったけれど、お城の輪郭にめぐらされた豆電球に明かりがともった。それを見上げる多くの市民の皆さんが、何も言わずに、涙を流して静かに見ておられた。それを私はテレビで拝見して胸がつまった。熊本城は熊本県民の、かけがえのない心の拠り所であることを実感した。

この熊本城は加藤清正によって築かれ、清正のあと入城した細川氏によって頻繁に改築工事がなされ、長い間、熊本県に大事に存在してきた。明治になって、西南戦争で大部分が焼失してしまったけれど、そうした災厄にも、その都度、雄々しく蘇ってきた。

例えば、新しい天守閣を復元する工事は昭和35年(1960)に完了したが、その姿を見て、どれだけ多くの市民が励まされてきたことか。

が、その天守閣の屋根の瓦が、今回はげ落ち、無残な姿になった。それを見ながら、「(現存数は少ないが)清正時代の建造物は殆ど持ち堪えた」と、清正の築城術の確かさが証明できたと言う関係者もいた。今回の復興には20年かかると言われている。被災者の皆さんの日々の生活の復旧が第一だが、この熊本のシンボル・熊本城の完全復興も、皆さんと共に、心からお祈り申し上げる次第である。

「加藤清正」後編はこちらから

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。