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【歴史編】「村上武吉」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 あの、戦国ビッグ3に、悉く楯突いた瀬戸内の海の男 戦国武将 村上 武吉

もう、60年近くも前の話である。中学1年の最初の授業の自己紹介の時に、村上という同級生が「私の先祖は村上水軍です」と言った。その日、家に帰った私は、母に「水軍って何?」と聞いた覚えがある。その時の母の「海で船を操る武士の集まりよ」という答えも、いま、鮮明に覚えている。

村上武吉。戦国時代から江戸時代初期にかけての武将である。歴史好きで海好きの、瀬戸内海にゆかりのある人以外はあまりご存じないかもしれない。信長や秀吉や家康のように、誰もが知っているという「有名人」ではない。しかし、この村上武吉は、一人、瀬戸内にあって、前述の戦国ビッグ3の3人のいずれに対しても、一度も節を屈して靡くことのなかった、気骨ある、海の男であった。

彼の生年は大永6年(1526)とも天文2年(1533)ともいわれるし、生誕場所は瀬戸内海の能島「らしい」という具合に、誕生日も生誕地も何だかはっきりしない。第一、彼には肖像画の類が一枚も残されていない。だから、武吉の容姿を知る人はこの世には、一人も、居ない。我々は、いま、色、浅黒く長身の、笑うと歯が真っ白な、筋骨隆々の、精悍な若者を勝手に想像するばかりである。

「村上武吉」元NHKアナウンサー 松平定知

陣羽織

「大将が羽織ったとされる陣羽織」
(写真提供:村上水軍博物館)

さて、時は遡って南北朝時代。朝廷内の争いの戦況打開のため、南朝の後醍醐天皇の参謀だった北畠親房は、平安時代末から瀬戸内一帯に勢力を伸ばしていた村上家に自分の孫を入らせ、そこを南朝色に染めようとした。この村上家に入った北畠親房の孫は、村上師清を名乗り、これが武吉の祖だと言われている。しかし、確証はない。師清の子供たちは、芸予諸島の、能島、来島、因島の三つの島に別れて勢力を張った。能島に伝わる村上家の文書によれば、「能島」が村上一族の「宗家」で、武吉はその頭領であったという。ただ、村上「一族」と言っても、それは一枚岩ではなかった。近在の、河野、大内、陶、毛利といった戦国大名と自分らの住む島との位置関係で、その利害は三者三様、微妙に違ったからである。

先刻、私は、村上武吉は「武将」だと記した。確かに、彼は瀬戸内一帯で活躍した「武将」には違いないのだが、その遠祖は、ひらたく言えば「海賊」である。村上家は、瀬戸内海に散らばる無数の島の地形や、周辺の潮流を熟知していた。大小の島々をかいくぐって自由自在に舟を操ることが出来る彼らは航行エキスパートであった。航行する船を襲い、その荷を強奪して生活の糧にする「海賊行為」も、彼らの「たつき」をたてる有力手段だったのである。しかし、村上武吉は自分たちのグループを、こうした「無法者集団」から「合法集団」に変えようとした。――「一大流通路である瀬戸内海を活動拠点にする我ら村上一族の内紛が、周辺の戦国大名たちの介入を許す結果になる。彼らの干渉を排し、自分たちのアイデンティティーを確立するためには、これまでのような、海賊行為をしながら内紛にうつつを抜かす生活スタイルではなく、先祖伝来の海上での特殊技能をさらに効果的に活かして得る「正当な報酬」を主収入源にした「まっとうな生き方」を選択しよう。つまり、通行する船から「通行料」を取り、通行許可証を発行するだけでなく、航行する彼らの水先案内を積極的に買って出て、彼らを船ごと護衛することで『合法的な報酬』を得るのだ」――「舟戦以律抄」によれば、武吉は、この「正業による収入の安定化」と併行して、リーダーの号令一下、法螺貝と太鼓の音で、海に散らばる仲間が直ちに一糸乱れぬ行動をとることが出来る規律の徹底とその訓練、更には、「焙烙」と呼ばれる新たな火器武器の開発(敵方に投げつけ、それが着弾すると同時に爆発する火器)とで、「村上水軍」をより強力なものにしていくのである。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。