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【歴史編】「柴田勝家」 元NHKアナウンサー 松平定知 歴史を知り経営を知る

元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授 松平定知 連載 北陸に散った、武骨・寡黙の‘もののふ’の生涯 柴田勝家

柴田勝家は、明るい太陽より、鈍色の空から音もなく降りしきる雪が似合う。私にとっての彼は、勇猛果敢で我慢強く、無口で不器用、鈍重で頑固な一徹者というイメージである。同時代に秀吉がいた所為だろう。饒舌で明るくて、腰も軽くて愛想がいい、フットワーク抜群の気楽な男。その余りの要領の良さに対する「小さな反発」と、どちらかといえば私は柴田側かという思い入れが、こういう柴田像を作り上げていったのかもしれない。でも、史料をあたってみると、彼も結構、生きるためには「動いて」いた。確かに無口ではあったけれど、柴田勝家、必ずしも「生きることに不器用な男」ではなかったのだ。

柴田勝家は、信長軍団の5人の師団長(勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、秀吉)の中心人物で、秀吉などより遥かに格上の、いわば「家老格」の存在として夙に有名だが、信長に仕官する前は、その信長の弟・信行(彼には、信勝や信成などの名前があるが、分かり易さを考慮して、以後は「信行」に統一)に仕えていた。この兄弟は父の死後、後継を巡って、骨肉相食む争いをするのだが、この時、柴田勝家は、信長の弟の「信行」派にいて、「信長排除」を試みた中心人物だった。それが、やがては、主君・信行存命中にも拘らず、敵方・信長に従いてしまう。柴田勝家は確かに強いし、無口な男だった。しかし、必ずしも、「生きることに不器用な男」では、なかったという話を、まず。

「柴田勝家」元NHKアナウンサー 松平定知

お市の石像/北の庄城址公園柴

兄弟の父・信秀が急死したのが天文20年(1551)。ご承知のように、兄・信長はこの葬儀に参列はしたが、服装は普段着、あまつさえ、「たった一枚の木片に過ぎない位牌に何の意味があるか」と、位牌に向かって思いっきり灰を投げつけるといった振る舞いをした。一方、信長とは2歳違いの15歳の弟・信行は神妙だった。服装も威儀を正したものだったし、位牌の前ではきちんと焼香した。織田の家は一応、信長が継いだが、「後継に相応しいのは弟では」という声が根強くあった。そんな中で信長の教育係の平手政秀は「信長、目覚めよ」と諫死するのだが、実際に「信長排除」に向かって事態は動き出していた。その中心にいたのが、柴田勝家だった。弘治2年(1556)4月、信長の岳父、美濃の蝮・斎藤道三が長良川で息子に殺されると、その動きは顕在化する。信行も、結構その気で、それまで織田家の当主しか名乗らなかった「弾正忠」という官職名を、兄の信長に無断で名乗った。このため、同年8月、兄弟はついに衝突する(稲生の戦い)。

結果は信長側が勝利した。しかし、この信長・信行兄弟は、文字通りの、血を分けた兄弟だから、この時は、二人の生母・土田御前の必死のとりなしで、兄は弟を許す。加之、弟側に与した柴田勝家ら、弟方の家臣たちも、信長は同時に許した。これには、当時の尾張の国力はまだまだ脆弱だったから家臣の減耗は極力避けねばならぬという「尾張独自の事情」も背景にあったが、でも、信長の、この「寛い心」と戦術、戦略の非凡さに勝家は感激する。心の底から勝家は信長に謝罪するのである。しかし、信行は違った。稲生の乱の敗戦の翌年、信行はまた、信長に対して謀叛を企てようとした。その過程で信行は古参の勝家の存在が段々疎ましくなってくる。彼に代わって重用された新参の家臣は専横だった。それを許す信行から、勝家の心は、益々離れていく。

そして弘治3年(1557)、勝家は遂に意を決して、信行の謀叛の意思を信長に密告するのだった。やがて、「信長病気」の偽情報が流され、その結果、11月2日、信行は信長のいた清州城に、見舞いに行くことになる。そしてその城内で、信行は、信長の家臣に殺害されてしまうのである。以後の勝家は信長一筋。当初、信行側にいたことのペナルティーとして、桶狭間や美濃潰しには参加出来なかったが、その禁が解けると、あとは、信長まっしぐら。信長が本能寺で横死するまでの主な戦いには必ず参加、全てに成果を残した。勇猛果敢な「鬼の柴田」は健在だった。しかし、当時は「武士たるもの、二君に仕えず」の時代だったことを思えば、弟を見限って兄に走ったことは、「織田家のためにやむを得ず」という側面があったにもせよ、「変心」には違いない。勝家は、必ずしも「生きることに不器用な一徹者」ではなかったのである。

しかし、勝家は、こと女性に関しては、やはり、「不器用で無口な一徹者」だった。

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元NHKアナウンサー 京都造形芸術大学教授
松平定知

1944年東京生まれ。69年早大卒。同年、NHK入局。「連想ゲーム」や「日本語再発見」を経て、ニュース畑を15年。「ラジオ深夜便 藤沢周平作品朗読」を9年。「その時歴史が動いた」を9年。「NHKスペシャル」は100本以上。2010年、放送文化基金賞を受賞。元・理事待遇アナウンサー。